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私たちのもの、神のもの

説教要旨(5月22日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 3:18-23
牧師 藤盛勇紀

 「だれも自分を欺いてはなりません。自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」。パウロは世の知者・人間の知恵の空しさ、惨めさを指摘します。人間は皆、自分がなぜ存在し何のために生きているのかさえ分からないまま死ぬ。自分にとって最も大事なことについて知らず、最も恐れているものについても分からない。「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」。自分で生まれてきたわけでもない人間の知恵など、神の前でいったい何だというのか。ところが、人間の誇りはその空しさ悲惨さを認めない。もはや処置無し、救い無し。
 ところが、そこに神の知恵が来ている!それをパウロは「十字架の言葉」(1:18)と言いました。罪の中でもがき、自分の惨めさも知らないまま死んでいく人間のために、神の御子が罪人として神に呪われ、神から捨てられた者として死んだというのです。人間を罪から解き放つために、神の御子が、呪いとなって、罪に死んだ。
 これはまさに「愚かしいこと」。この愚かしさは、神の愛ゆえです。愛は自ら愚かしくなることを厭わず、神は神でありながら、人となってしまわれた。私たちを命に入れるために、最も尊い独り子を死に渡してしまった。神は「愚かにも!」最後の切り札を切った。出し尽くしてしまったのです。だから「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚か」。しかし、「私たち救われる者には神の力」なのだと言うのです。
 世の知恵・人の知恵は、決して神の知恵と噛み合うことはありません。それは1章からずっと語られてきました。もし神の知恵に触れ、神の知恵によって真の命に与って生きることができるとすれば、それは一切が神の霊によるのだと示されてきました。だからパウロはここで改めて、「だれも人間を誇ってはなりません」と言うのです。
 人間を誇るとは世のものを誇ること。しかしこの世の一切は廃れ、過ぎ去ります。そんな、かりそめのものを頼りとして生きることの空しさ惨めさを知るべきです。
 パウロは唐突に、「すべては、あなたがたのもの」と言います。「あなたがた」とは、キリストに結ばれた者たちであり、キリストの体なる教会です。教会は「聖なるもの」すなわち「神のもの」です。もちろん世の全てが神のものです。人間はもともと神のかたち、神の写しに造られました。人格的な関係の中で、神に応え交わる存在であり、造られたものの喜びを現す存在でした。ところが人間は、自らに与えられた自由を濫用し、自ら神から離れ、世の様々な力の支配のもとに下ってしまいました。本来の人間を失った世界も意味を失い、虚無に服することとなってしまった。しかしそこから、神は私たちを取り戻してくださるのです。
 そうであるならば、全ての人間は神の民となることを目指しているのだと言えますし、万物が神の民、神の子らが現れて、存在の意味が回復されることを節に待ち望んでいるのです(⇒ローマ8:20~23)。
 人間が、「神の子」として現れるために必要なことは、御子イエスの十字架によってすべて備えられました。御子を通して注がれた神の霊によって生きるなら、私たちは、霊から生まれた者、「神の子」なのです(ローマ8:14~17)。さらに、私たちは「神の相続人」なのですから、すべては私たちのものです。「これらのことについて何と言ったらよいだろうか。・・・わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか!」(ローマ8:32)。
 だから万物・万事が、「世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも」、一切は、私たちを通して、神が神であられる神の栄光を表すのです。それほどに光栄ある者とされていることを知って生かされることこそ、真の「知恵」です。