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さあ行って、伝えなさい

説教要旨(4月17日 イースター礼拝より)
マタイによる福音書 28:1-10
牧師 藤盛勇紀

 この方こそと信じて期待をかけていた方を、今墓に訪ねる。何と空しいことでしょうか。ところが、突然彼らに天使が近づき、一気に語ります。「急いで行って、弟子たちに告げなさい。『あのかたは死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなたがたに伝えました」。なんとせっかちな天使でしょうか。主とお会いする?どういうこと?ちょっと待って。しかし「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。恐れなのか喜びなのか何が何だか分からないけれど、なぜか喜びが満ちてくる。するとイエス様ご自身が現れ、出会うなり「おはよう」(直訳すれば「喜べ)。
 イエス様は彼女たちの失意や恐れや不安をよくご存じです。天使も主ご自身も、まず「恐れるな」と言われます。しかし主は、そんな恐れにかかずらっていられないとでも言うかのように、「行きなさい!告げなさい!」と彼女たちを急かします。それは、彼らが時間も止まったような失意の中に留まっていたからでしょう。「このお方こそは」と期待をかけていたのに、「もう何もかも終わってしまった」と。
 しかし主は急がせます。おはよう!喜べ!急いで行って伝えよ!説明は後だ! 生ける主は、私たちを混乱させます。いや、そもそも復活なんて信じられない、と言う人もいるでしょう。それも当然です。
 「復活節の疑い」という言葉があります。死んだイエスの復活など信じがたい、といった「疑い」ではありません。「イエスは生きておられる」と告げられる所で疑われるのは、誰も疑ったことのない「死」の確かさについてです。すべてを不確かにし不安にし、希望を失意にしてしまう死の支配。そんな死とその力は、本当なのか?それは疑わしい。失意?失望?不安? それらは勝手な思い込みではないか? そんな所に留まるな! 主があなたを、先へ行かせようとしておられるではないか!
 死を疑い、失意を疑い、根本的な不安や恐れを疑う。孤独や空しさ、それらはあなたが一人で思っている、独り決めだ!あなたの命の主がおられるのに!
 ヨーロッパに古くからある言葉に「復活節の高笑い」があります。復活祭の礼拝を献げた人たちが「イエスは生きておられる!ワッハッハ!」と高笑いするのです。死の現実は人間にとって最も厳しい過酷な事実です。しかも、死はいつ襲ってくるかも分からない。襲われたらお終い。しかし、私たちが最後にあるいは不意に出会うのは、死ではありません。失意と不安の中にいた婦人たちの行く手に、主が立っておられたように、そして弟子たちより先にガリラヤに行かれたように、私たちの主は先回りをしておられ、私たちの行く手に立たっておられ、私たちを生かすべく待っておられるのです。「もう終わった」と思ってうつむいて帰るような所に、主はおられます。
 私たちには今日も大いに不安があります。コロナは収束しないし、戦争が世界を恐れと不安に陥れている。先行きは不安と悲惨。この世界と人生にどんな意味があるのか。
 しかし、そこに主は生きておられます。主はあなたを待っておられます。この方があなたの主であられるなら、死を笑うことができます。疑いを笑い飛ばすことができます。死?なにそれ?「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(1コリント15:55)。死よ、皮肉なことだが、お前が死んだのだ!
主は「行きなさい」と言われます。まず行ってごらんなさい。そこであなたは知るのです。自分の人生もこの世界も、主が共におられる世だった。死の絶望はウソ。「もうお終い」も自分勝手な思い違いだと。あなたが今いる所に、主の使命があるのです。