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キリストという土台

説教要旨(5月1日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 3:10-15
牧師 藤盛勇紀

 「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」とパウロは言います。「神からいただいた恵みによって」土台を据えたのだと。パウロの働きは、決して人間的な知恵や力によっては為し得なかった、ただ神の恵みの力によるものでした。「熟練した」とは「知恵」の形容詞で、「知恵に満ちた/賢い」という意味ですが、これも人間の英智や経験に基づくものではなく、徹頭徹尾「神の知恵」なのだとパウロは語り、この「神の知恵」を受けるためには、人の知恵は何の役にも立たず、ただ「神からの霊」を受けることのみによるのだと明確にしてきました。
 ところがコリントの信徒たちは霊的に「乳飲み子」となってしまい、「固い食物」を食べることができず、霊の人ではなく「肉の人」(生まれながらの人間)のままでした。そして、1章で触れられた問題が改めて取り上げられたのでした(4~7)。パウロもアポロも、成長させてくださる神にお仕えする奉仕者に過ぎない。私たちの内に働いてくださるのは神だ。だから「あなたがたは神の畑、神の建物なの」だと(9)。そして、 パウロがその建物の土台を据えました。土台とは、神の知恵でもあるイエス・キリストです。この「土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」。
 イエス・キリストが土台だとはどういうことでしょうか。一言で言うなら、「イエス=キリスト」です。これは人の名前ではなく信仰告白です。「イエス」を「キリスト」と信じさせ、そう告白させるのは聖霊であり「信仰の霊」です(12:3、2コリント4:13)。この霊によって、「イエスはキリスト」と告白しているなら、その人はすでにキリストに結ばれています。それが、キリストを土台としているということです。
 この土台は、主を信じる者にはすでに据えられています。この上に「おのおの、どのように建てるかに注意すべき」です。それは各々の信仰に従った働きで、「金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる」のです。ある人は「金」や「銀」をもって建て、ある人は「草」や「わら」かも知れない。それらはいずれ「かの日」に、「おのおのの仕事は明るみに出されます」。
 主が来られる終わりの時のことですから、今私たちがそれぞれの働きを見て最終判断すべきことではありません。私たちそれぞれの働きは、今まさに建築中なのであって、それを見て「あれは金だ、宝石だ」とか、「あれは草に過ぎない」などと裁く必要はないのです。裁きは神のものです。
 終わりの時の「火」は、主の裁きです。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受け」ることになります。どんな仕事が残り、どんな仕事が燃え尽きてしまうのかは、私たちには分かりません。「燃え尽きてしまえば、損害を受け」るのは恐ろしいことですし、避けたいと思います。しかし、仮に燃え尽きるとしても、それは私たちの為した「仕事」であって、私たち自身ではありません。そもそも、どんな立派な仕事も成果も、目に見えるものはいずれ過ぎ去ります(⇒2コリント4:18)。見えるもので燃え尽きずに残るものなど無いのだと弁えるべきでしょう。
 しかし、私たち自身は「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」。私たちの救いは、私たちがこの世で為した仕事にはよりません。パウロはこのことを確認して、「信じる者を救おうと、お考えになった」(1:21)神に信頼するのです。私たちに与えられた賜物も働きも様々ですが、それを生かし用いられるのは神です。たとえ私たちの仕事の成果が無に帰したとしても、私たち自身は決して失われません。私たちは神の御子の血によって、完全に神のものとして贖い取られたからです。この土台は、決して揺らぐことはありません。