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知ることは愛すること

説教要旨(9月18日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 8:1-6
牧師 藤盛勇紀

 「偶像に供えられた肉について」。これは、どこかの神々に供えられたもの、いわゆる「お下がり」を食べてもよいのかといった問題です。同様の問題は、すでに「エルサレムの使徒会議」(使徒15章)で協議され、結論が出ています。異邦人教会の誕生によって、異邦人も律法を守るべきかどうかが問題になったのですが、救いのために律法を守ることは不要、ただ信じることのみ、と確認されたのでした。また、キリスト者にとって食べてはならないものがあるか、という問題についても、ローマ14章で明快に示されています。「何を食べてもよい」。主イエスも言われました。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイ15:11)。ただ、パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい」とも勧めます。信仰の弱い人は、「これを食べても良いのだろうか。キリスト者なのにあんなものを飲んでもいいのか」と恐れています。その人に「ほら大丈夫だ」、ドンッと背中を押して突き落とすようなことをするなと。食べることが罪なのではなく、「恐れながら」することが罪だからです。一定の決まりがあるわけではありません。信仰と愛に基づいて、自由に判断すべきです。
 それでパウロは、「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と、「知識」と「愛」について語ります。古代ギリシア文化の中でも、救われるためにはある知識が必要だと考えられていました。パウロは「知識は人を高ぶらせる」と言い切ります。それに対して「愛は造り上げる」のだと。これも現代の私たちの問題です。「知識」は常に自己が中心で、対象を把握し、取り込み、それによって支配しようとします。まさに「知識は力なり」ですが、決して「神を知る」知識にはなり得ません。神を愛することもなく、ただ人を高ぶらせます。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」のです。救いについて、神について、知らねばならなぬことでしょう。しかし、神の何を、どう知るのでしょうか。
 「今は神を知っている。いや、むしろ神から知られている」。神を知るとは「神から知られている」と知ることです。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」とパウロが言ったように、「知る」とは、実は「愛する」ことです。この私が、神から愛されている、だから私も神を愛している。神を知るとは、そういうことです。
 このお方をモノのように対象化することは最大の侮辱です。「知識」はそれをしてしまうのです。逆に、人格的なお方に対する最大の尊重・敬意は、信頼すること、信じることです。《知ること》と《愛すること》と《信じること》は一つなのです。
 「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(13:8)。知識はモノと同じく必ず廃れます。忘れてしまえば失われます。「神に知られる」とは、神に愛されている事実に他なりません。これは決して知識などではなく、人格的な方との交わりであり愛です。愛されて生きていること。愛に触れられて応えていることです。
 であれば、「世の中に偶像の神など」無いことも当然です。偶像の神は人間が生み出したイメージで、愛も命もありません。しかし、私たちの神は万物の造り主なる神です。愛が溢れ出るような仕方で、神ご自身のイメージとして人を造られました。神は私たち人間のイメージではなく、私たちが神のイメージなのです。
 神をこのような方として知ったのは、「唯一の主、イエス・キリストがおられ」たからです。この方に結ばれて、私たちも神を「父」と呼び、御子イエスと父の愛の交わりの中でこのお方を知るのです。こうして私たちは、パウロと共に告白します。「万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」。