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信仰は言葉ではなく力

説教要旨(6月26日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一  4:14-21
牧師 藤盛勇紀

 「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく」とパウロは言います。「こんなこと」とは、「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」という言葉に極まった強烈な言葉です。 
 しかし、ここでパウロは言います。それは「愛する自分の子供として諭すため」だと。直前で語った伝道者の惨めな姿とは一転、信徒たちを「子供」と呼び、自分を父親として、「わたしに倣う者になりなさい」と勧めます。直前の「クズ」「カス」だという惨めな姿は微塵もありません。むしろ、権威ある者として、自信に満ちた者が愛をもって子供を諭すように語りかけます。「キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」。私は「養育係」の一人だではない、私があなた方をもうけた父親なのだと言うのです。
 直前の箇所では、神と伝道者との関係から、キリスト者のあり方を見ました。神は世のクズ、カスをさえお用いになる。無価値なものを生かして用いる神の恵みが現されていすのだと。ここでの、「わたしに倣う者になりなさい」との大胆な勧めも、パウロのように知性溢れる人間になれ、などということではなく、神とその恵みから見よ、たとえ「世のクズ、カス」と言われようと、揺るぎないあなた自身を、神の恵みのもとで得よ、ということです。
 伝道者には、神によってのみ生かされる者としての、ある意味無価値な姿が現されているだけでなく、他方、神から民へと遣わされた者、キリストの御体なる教会に仕える者としての姿、あり方があります。そこには、神に由来する権威と使命があって、神から与えられた力もあります。ここでパウロは、そのような者として語り始めます。
 パウロは伝道者を「仕える者(奉仕者)」(3:5)だと言いました。神はご自分が召した者を、神の教会に仕えるものとして世にお遣わしになります。「仕える者(遣わされる者)」にも両面性があるのです。パウロは、キリストにある権威をもって今コリントの信徒たちに語り、さらに自分の同労者であり弟子でもあるテモテをコリントに遣わします。「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです」と言いますが、「このこと」とは「わたしに倣う者になりなさい」と勧めるためであり、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせる」ことです。
 パウロの生き方は特別なものではなく、「キリスト・イエスに結ばれた」者の生き方であり、それをコリントの信徒たちに「思い起こさせ」たいのです。キリスト者の人生には、言わば基本的なスタイルがあります。「至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに」とあるように、いつでもどこでも変わらない普遍的で不変のスタイルであり「生き方」です。言うならば、パウロがしばしば強調するキリストのものとされた者の自由です。神のものとされた私は、人に支配されず、人の判断や評価や、褒められるのか悪口を言われるか、そんなことによって決定も左右もされません。人を比較して思い上がったり、高ぶったりすることからも自由にされています。
 そこでパウロは、権威ある者として大胆に語ります。「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」。まるで脅しているようにさえ聞こえます。実際コリントの信徒たちは恐れたでしょう。パウロが来たら、厳しく戒められて今のままではいられそうにないからです。「神の国は言葉ではなく力にある」。パウロが携えて来る福音は、人を神の恵みによって生きる者とする力であり、単なる言葉や議論ではなく、考え方や思想でもなく、まさに神の「力」として現れる、私たちの生き方、命です。神の国が到来していることが、私たちの人生によって、世に示され現されるのです。