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自分の体は誰のものか

説教要旨(8月7日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 7:1-7
牧師 藤盛勇紀

 パウロは問い合わせに答えるかたちで、改めて不品行の問題を取り上げ、先に結論めいたことを言います。「男は女に触れない方がよい」。極論に聞こえますが、パウロは考え方を示そうとしているのです。結婚に関する勧めも、「みだらな行いを避けるために」結婚するというわけではありません。不品行の問題について、たとえば結婚においてはどう考えたらよいか、夫や妻は互いに何なのかということから、《私たちはどういう者なのか》を改めて確認したいのです。
 妻も夫も「自分の体を意のままにする権利を持たない」とは、どういうことでしょうか。「自分の体」は自分で造ったわけではない、与えられたものです。その意味で、「自分の体」は自分でありながら自分のものではありません。結婚関係で考えても、「自分の体」は自分勝手に使っていてよい、とはならない。それを弁えていれば、不品行の問題も起こらないでしょう。
 「自分の体」は自分のものと思っても、自分の思い通りにはならず、自分の体のことも案外自分では分かりません。自分の体は、自分であって自分ではない。スポーツ選手などが、「親からもらった体」と言います。「せっかく両親からもらったこの体を、最大限に生かして、見てもらいたい」と。キリスト者は「神からいただいた体」と言うでしょう。「いただいた」と知っている人は、「くださった方」のことを思います。この体を精一杯使って、体をくださった方に見てもらいたい、喜んでもらいたいのです。
 最初に体をいただいたのはアダムとエバ。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)。神は「我々」に似せて人を造ろう、と言われました。神は「ひとり」ですが「独りぼっち」ではなく、愛と交わりの豊かさをもった方です。その似姿に造られた人間は、愛と交わりの神を表すもの。見えない神はこのような方だと、人を見れば分かる。本来そんな存在です。「二人は一体となる」(創2:24)という在り方をもって、愛なる神を表すのです。
 パウロはエフェソ5章で、夫と妻に対する勧めを語っています。「妻たちよ」「夫たちよ」と勧めますが、パウロの関心は夫婦がどうあるべきかを超えた所にあります。「二人は一体となる」を引用して「この神秘は偉大です」と言い、「わたしは、キリストと教会について述べているのです」と言います。夫婦という関係を考える時も、常に「主と私たち」のことを考えています。あらゆる交わりの背後に、主が与えてくださった恵みを覚え、私たちはその豊かな恵みの神を表す存在だと知ってほしいのです。
 ここでは男と女、夫婦という文脈で語っているので、自分の体は互いに相手のものという言い方になりますが、パウロの勧めは、普遍的なことではありません。「そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません」。独身の勧めも、普遍化はできません。パウロのように独りでいることによっても、神の恵みを表すことができるということ。つまり、人それぞれなのです。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」。
 神の愛と恵みと祝福とを、どのように現すかは、人によって違います。パウロが示したいことは、どこまでもキリストに現された愛と恵みの神にお応えする生き方であって、それがこの地上に置かれた私たちの祝福であり使命でもあるのです。
 「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(6:19-20)。それをパウロは、別の文脈で語ったわけです。あなたは、あなたのその体ごと神のものとされています。その恵みを、あなたのその体と生き方で、表してよいのです。