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福音を語る者の自由

説教要旨(10月16日 夕礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 9:1-12
牧師 藤盛勇紀

 パウロは繰り返し「自由」について語っています。救いとは何かを考えるとき極めて重要な要素です。8章から、救われた者の自由を語っていますが、そのパウロを批判する人たちがコリント教会にいます。パウロが使徒であることを疑い、否定する者たちもいます。パウロはかつて教会の迫害者だったので、批判は生涯つきまといますが、それでも確かにパウロは使徒なのです。「使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか」。これは、ダマスコ途上で生きておられるイエスと出会った経験のリアリティーです。もし、パウロが使徒だということを否定したら、彼から福音を伝えられ、信じてキリスト者となったコリントの信徒たち自身の信仰を自ら否定することになってしまいます。だからパウロは、「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」とも言うのです。
 パウロへの批判は、同労の伝道者たちにも向けられていました。ココでパウロはいくつもの「権利」を主張しているように聞こえますが、すでに当時の教会で当たり前だったことや、伝道者たちの生活のことが背後にあります。「食べたり、飲んだり」とは、教会が伝道者の生活を支えることを言っており、6節では「生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利」と言われています。「ケファ(ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利」とあるのも、妻がいる使徒は夫婦で伝道の旅をしますから、教会はその夫婦を支えたのです。
 ところが、パウロたちはそのことでも批判されました。パウロは聖書をも引用しながら、働く者が生活のための糧を受けることは当然だと語ります。伝道者の働きは、福音を伝えることです。霊的な命に与らせ、霊的な糧を与える。だから、「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか」と問うのです。
 こうして、伝道者たちの働きと教会の働きとの当然の関係を語るのですが、「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした」と言います。伝道者の生活を教会が支えるのは当然だと言うと、「お前は金のために伝道しているのか」と批判する人が必ず出てきます。コリントでは、そうした批判が浴びせられました。それで、少なくともコリントでは報酬を受けなかったのです。
 何らかの働きをして報酬を得ることは当然です。それをパウロは「権利」と表現しました。しかしパウロはここではそれを用いないのです。それは「キリストの福音を少しでも妨げてはならないと」考えてです。福音は、一方的に与えられ、差し出された恵みであり真の命です。私たちは福音を聞いて信じて、はじめて神の恵みを知りました。「恵み」は、人間の知恵では理解できないとパウロは語りました。恵みを恵みと知ったのは、生ける神の霊に触れていただいたからです。私たちが恵まれたのは、決して「権利」などではありません。むしろ、それを受けるに何の相応しさもなく、滅びに定められた者に与えられたのが恵みです。罪人を赦す愛であり、罪人を神の子とする憐れみであり、まさに福音です。
 パウロは「自由」と言いました。神によって罪と死から解放された自由を、無報酬で伝えることによって、福音がどんなものであるかを、改めてコリントの信徒たちに示したかったのです。パウロが考えていることは常に福音です。私たちは「権利」によって生きているのではなく、「恵み」によって生かされている。パウロがここで権利のように語っていることも、実は恵みだったではないかと分かってもらいたいのです。「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」とのみ言葉も、牛の権利の主張などではなく、牛をも憐れまれる神の恵みです。神がそのように生かすことを望んでおられる。そして、あなたも恵みによって自由に生きることを、神は願っておられるのです。