ホーム | 説教 | 説教(2022年度) | 災いの中でも働く方

災いの中でも働く方

説教要旨(7月10日 朝礼拝より)
イザヤ書 5:8-24
牧師 加藤英徳

 預言者イザヤが活躍した時代、イスラエル王国は分裂し隣国の脅威を感じていました。そんな彼らの様子を目にする私たちも彼らと同じような不安と混乱の中にいます。それらに周りを取り囲まれ明日へと続く道のりをふさがれているように感じるのです。そういった状況の私達から出るのは不平不満を嘆くつぶやきです。
 与えられた箇所でイザヤが「災いだ」と繰返し嘆く言葉を目にする時、だからこそ、その嘆きは私たちの心を代弁しているように思えてきます。でもその「災い」に改めて目を向ける時、彼の告げる「災い」が私たちの思い描くのとは異なるのを知らされます。8節で「災い」とつぶやくイザヤの目は「家に家を連ね、畑に畑を加える者」に向いています。11節では豊潤な生活を送る姿を「災い」と言います。外的影響で混乱する中、「災い」と言われている彼らの行動が国内の輪を乱すように思えるからこそ、そんな彼らの姿を「災い」と云っているようにも思えますがそうではありません。イザヤが「災い」と告げるのはそういった人々が抱く心の持ちように対してです。
 前章で私たちは葡萄畑の農夫の姿を通して、神様が私たちに向けられる思いがどれほどかを知らされました。彼は全ての葡萄の実に日が良く当たるようにと丘陵地に畑を準備します。外敵から守るため柵を巡らせ見張りの塔を建てました。収穫後のために酒ぶねも用意しました。準備段階から収穫を思い描き働く農夫の姿は、未来の豊かな実りに向けてその間も楽しむ姿です。それも農夫は一人でそれを楽しもうというのではありません。植えた葡萄の木と共に楽しもうとするのです。だからあれほど準備したのです。
 それは私たちを御創りになった神様もです。神様は私たちと送る全ての日々に思いを向けてくださりその一日一日をともに楽しんでくださいます。にも拘らずイザヤが告げる「災い」な者は「聖なる方を急がせ、早く事を起こさせ、その働きを実現させれば納得しよう」と言うのです。それだけではありません。そんな彼らは「悪を善。善を悪」とし賄賂をとって正しい訴えを退けるのです。そんな彼らの姿は自らの周りにある願いを叶える為の道具に変えた姿です。そんな彼らの姿に酸っぱい実をつけた葡萄の木が重なります。
 ところであの農夫は酸っぱい実を実らせた葡萄畑の様子を嘆きその畑を見放しました。その結果、きれいだった葡萄畑は見る影もない荒れ地となりあの葡萄の木は茨に覆われ実をつける事すらなくなりました。
 繰り返しになりますが「災い」な人々は前章の葡萄の木であり葡萄畑そのものです。だからイザヤはそんな彼らの進む先には陰府がのどを開いて待ち構え、全てを飲み込もうとしていると告げます。陰府は生前あったすべての関係から切り離される死後に向かう場所です。つまり全てを自らの望みの為と振舞ったその先には全ての関係から切り離された状態が待ち構えているというのです。
 振返って私たちも自らの願いばかりに目がむき「主の働きに目を留めず御手の業を見る」事がありません。イザヤの告げる「災い」がそこにあります。そうやって与えられた箇所は「災い」な者の姿をこれでもかと示します。その後に残るのはお先真っ暗な救いようのない状態です。
 ですがです。そんな私たちの事を神様はそれでもお見捨てにならず、御自分の独り子であるイエス様を送って壊れた関係を修復してくださるのです。
 私たちの明日はどうなるのかそれは全くもってわかりません。だから私たちは自らに頼りその結果イザヤが告げる災いの状態になります。
 でも、そんな私たちのためにイエス様が来てくさださったことを私たちが受け入れる時、私たちの災いはイエス様によって変えられます。その時イエス様はそんな私たちに「あなた方は既に幸いである」とお告げになるのです。