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悪意の種を取り除け

説教要旨(7月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一  5:1-8
牧師 藤盛勇紀

 「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」。衝撃的です。本来なら恥じるしかないはずが、コリントの信徒たちはなぜか「高ぶって」「誇っている」、しかも教会はそれを放置しているというのです。
 高ぶり誇ることは誰にでもあります。人は何でも誇りのネタにします。地位や資格を得た話から、ギャンブルで当てた話でさえ誇りになる。本当に価値があり誇るべきものを知らないからでしょう。他者への高ぶりは、神に対する高ぶりにもなります。神無しに生きているからです。それが今や、恥ずべき行為を誇るほどの堕落となって、コリントの信徒たちは惨めな姿を晒している。パウロは、神無しに生きるに等しい悲惨さに気づいてほしいのです。
 では、みだらな行いという具体的な問題の方はどうするのか。パウロはエフェソにいますが、「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」と言います。これは何か神秘的・奇跡的な話ではなく、私たちの内に生きておられるキリストの霊に従って裁くことです。人間による裁きではなく、世の価値観や世の人の判断によるのでもない、キリストの御心を尋ね求めながら、その恵みのご支配の内に問題を扱うということです。
 その処置の結果、「わたしたちの主イエスの名により、…このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡」すということもあり得ます。恐ろしいことです。しかし「それは主の日に彼の霊が救われるためです」。自ら蒔いた種を自ら刈り取り、自らに死を招く結果となったとしても、それは終にその人の霊が救われるためです。善人も悪人もいずれ体は死にます。問題は、神のもとに生きるかどうかです。罪ある者が滅ぶのではなく、救われることこそ、神が願われることであり、教会のあらゆる働きの目指すところです。そのために肉の業が裁かれることが必要な場合もあります。
 「あなたがたが誇っているのは、よくない」。恥ずべきことをしながら、なお高ぶっているという、倒錯した誇り、神無き生を生きる者の悲惨な誇りを、パウロは批判しています。その例として、「パン種」(イースト菌)を取り上げます。少し入るだけで全体を台無しにしてしまう譬えです。それは私たちの思いや心にあります。もし「新しい練り粉の」新しいパンであろうとするなら「古いパン種をきれいに取り除きなさい」とパウロは勧めます。
 コリントの信徒たちがどれほど堕落していても、それでも彼らはすでにキリストに結ばれた者であって、「パン種の入っていない者」なのです。それは、彼らが心を入れ替えて更生する可能性を持っているからではありません。彼ら自身の持つ可能性ではなく、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたから」に他なりません。
 「過越祭」は、イスラエルがエジプトで奴隷だった時、神がモーセを立ててエジプトから脱出させられた時の、神の裁きと赦しの救いの経験に基づいています。イスラエルの人々は主の約束を信じて小羊を屠り、その血を家の入り口に塗ったのでした。
 十字架のイエスは、過越の小羊として屠られ、過越の完成となられました。このお方に結ばれた者は、全ての罪が赦され(過ぎ越され)、復活の命に生かされています。だから、この方を誇りとし、もはやこの世の何かに頼って自分の内に必死に取り込むようなパン種は必要ないのです。
 だから「純粋で真実のパン」であるイエスに結ばれて「過越祭を祝おうではありませんか」と言います。これは今日も行う聖餐式、イエスの血による過越の祝いです。みだらな行いというおぞましい問題から入りましたが、目指すことは、キリストにある赦しと新しい命に生きることなのです。