ホーム | 説教 | 説教(2022年度) | 神の栄光を現せ

神の栄光を現せ

説教要旨(7月31日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 6:12-20
牧師 藤盛勇紀

 「わたしには、すべてのことが許されている」。パウロがこれをどんな文脈で語っているのかを考えると、不思議な気がします。「みだらな行い」「娼婦と交わる者」など、ここでもやはりコリント教会の深刻な問題が取り上げられています。しかしパウロは、「十戒に違反している」とか「厳しく処罰を」などと言うのではなく、先ずはキリスト者は根本的に自由であるという大原則か入り、慎重に語ります。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」「わたしには、すべてのことが許されている。しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。
 キリスト者は主なる神の他何者にも支配されず、裁かれない、自由な存在です。この自由についてガラテヤ書でこう言います。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」。自由には根拠があり由来があるということです。人間は自由であるべきだといった、単なる理念などではありません。
 根本的な自由を認めた上で、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と言います。何でもやってしまうという自由は、自分をも他者をも傷つけ、人を支配してしまいます。しかし「わたしは何事にも支配されはしない」。パウロは単に内心の自由のような精神的な問題で考えず、「体」との関係で具体的に考えます。「食物は腹のため、腹は食物のためにある」。生きて行くことを、「食べて行く」などと言ったりしますが、体をもって生きること自体は、善悪の問題ではなく、自由の問題にもなりません。
 しかし、「みだらな行い」は問題となる。なぜなら、体は《何のため》か《誰のもの》とするか、という問題になるからです。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられる」のです。私たちの体は主から与えられたものです。だから主は、私たちの体をどう用いるか、ご計画を持ち、御心を注いでくださいます。
 こうして、私たち自身の体を、主との関係で考え、体をもって生きる私たちの自由をも考えるのです。私たちの自由は自然ではなく、当然自由なのでもありません。
 続いてパウロは、「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」と、主イエスの復活と私たちの復活を語ります。少々唐突な感じがしますが、「食物」と「腹」つまり体は、結局「滅ぼされる」ものです。しかし私たちの体は、主と同じように復活させられる、永遠なるものと結び付く、というのです。
 人の体は神によって造られたものです。ところがそこに罪が入り込み、命の源である神との関係を断ち、人は死に定められ、罪と死の支配の下に置かれました。この死すべき者に真の命を与えるために、神は御子イエスの十字架において罪を処断し、滅ぶべき者に復活の命を与えてくださいました。だから私たちの体も命も、もはや飲み食いの問題ではなく、主キリストとつながるかどうかです。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。…娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、…しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」。娼婦と「交わる」も、主に「結び付く」も同じ言葉です。私たちは誰と交わり、誰に結びつくのかが問われています。これは自由の問題です。
 「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」。神ご自身が私たちの内におられ、私たちを生きておられます。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。私たちがここに生きていることは、ここにキリストがおられることです。私たちは、見える神の神殿のように用いられています。私たちは、御子の命という尊い「代価を払って買い取られたのです」。この計り知れない恵みを、この地上で具体的に現すのは、他でもないこの私たち自身です。