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天使たちをも裁く

説教要旨(7月24日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 6:1-11
牧師 藤盛勇紀

 「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」。教会の中での「ささいな事件」「日常の生活にかかわる争い」さえ処理したり仲裁することができず、世の裁判所に訴え出ている。それをパウロは問題にします。世は今日に至るまで混乱しています。人々は自らの存在の理由も知らず、生きる目的も行くべき方向も知らず、思い思いの方向に向かっている。その意味でこの世は無秩序です。しかし、神は混乱するこの世を放って置かれるのではなく、働きかけ語りかけ、摂理をもって支え保ち、最終的には神ご自身が完成してくださり、神が裁き治められます。キリスト者はそれを知っているから、この混乱する世を諦めず、神の御心が地に成ることを信じて祈り、私たち自身が用いられて神の御業が行われることを信じて、自らを神に献げます。
 ところが、コリント教会はそうした信仰もビジョンも失って、バラバラ状態。小さな問題でさえ世の人々の判断を頼りにし、自分たちに委ねられたものがいかに大きく素晴らしいものかを忘れていました。
 だからパウロは言うのです。「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか」。「聖なる者」とは倫理的な意味ではありません。倫理的道徳的に問題があっても、神のものとされ、神に取られていることです。「あなたがたは不義を行い、奪い取っています。…正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」。ドキッとする言葉です。「あなたがたの中にはそのような者もいました」とありますが、今は問題が無くなったというのではありません。問題は常に新たに生じ、罪も犯す。しかし、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。信じて、洗礼を受けてキリストに結ばれ、すでに、神から義と認められたのです。
 私たちは一人残らず「正しくない者」、本来「神の国を受け継」げない者です。にもかかわらず、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされ」ました。あなたが正しい人だから救われるのではない。あなたが神の御心にかなうような何かをしたからでもない。あなたが清く正しく生きる見込みがあるからでもない。むしろ、あなたは正しくない、清くない。手の施しようのない、死ぬべき病人なのです。しかし、イエスは言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。私たちはただイエスに招かれ、イエスご自身の血によって清められ、神のものとして贖い取られて神の子とされ、神の国を受け継ぐキリストと共同の相続人とされているのです。
 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」(4:3)。人が私を裁くなら裁いたらよい、私を裁けるのは主のみなのだ。だからパウロは言います。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。神の恵みを知らないかのように、世に訴え出るくらいなら、「不義」とされてもよいではないか、損をしたってよいではないか、と言うのです。私たちはキリストにあって神の国を受け継ぐのです。私たちは「天使たちをも裁く」者。天使は、神の子とされて生きる私たちのために仕える者です。私たちはそれほどの者とされている。だから、愛と恵みをもって支配なさる神とその御国を、私たち自身の存在をもって世に現して行きたいのです。