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言は神であった

説教要旨(6月12日 主日朝礼拝より)
ヨハネによる福音書 1:1-5
牧師 星野江理香

 「神の御子は母マリアの胎に宿られる前、何処にいて、いつお生まれになったの?」こんな子どもの素朴な疑問にも聖書は真っ直ぐ答えをくれます。「ヨハネによる福音書」第1章1節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書かれています。…「初め」とは「原初」のことです。その「初め」に「言があった」と聖書は教えてくれます。また聖書の最後の文書「ヨハネの黙示録」は第19章で主イエスについて「その名は『神の言葉』と呼ばれた」と報告しています。「ヨハネ福音書」の云う「言」です。ですから、「言」と呼ばれた御子は原初からおいでになり、天地創造のみわざ以前に生まれておいでだったのです。
 また「創世記」第1章に「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」とあるように、御父の天地創造の時「言」は神の言葉として、御父と共にこの世を「創造され」ました。「ヨハネによる福音書」第1章3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と報告されている通りです。「天地創造」のみわざ以前から、神のみ子は「言」として、既に「神と共に」働き給うたのです。
 しかしまた別の疑問も沸くことでしょう。第1章1節の二番目の聖句には、「言は神と共にあった」と書かれていて、それにもかかわらず、続きには「言は神であった」とあるからです。そのまま単純に読み取ろうとすると、「A≠B」同時に「A=B」というような矛盾が生じます。けれど、実のところ、聖書の元の原語では、二つの聖句のそれぞれの「神」の片方にだけ「冠詞」がつけられ書き分けられています。つまり、御子と御父はいずれも神であり給うので「A=B」。同時に異なる位格であり給うので「A≠B」なのです。聖書は、絶妙な仕方で父なる神と子なる神を示しています。また、「創世記」第1章2節に「神の霊が水の面を動いていた」と書かれてありますように、天地創造の時から既に御霊も御父と御子と共にあり、私たちは、私たちのための救いのご計画をたててくださった神様が、「三位一体」の御方であると気づかされるのです。
 それですのに、私たちはふだん、主イエス・キリストが、「子なる神」であり給うことを忘れがちではないでしょうか。主イエスが「子なる神」であり給わなければ、十字架のみわざによる救いのご計画が成就し、私たちが救いの恵みに入ることはなかったにもかかわらず…。 
 そして、「成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあるように、「天地創造」のみわざにおいて、私たち全てのものは御子を通して創られました。「言の内に命があった」と語られる所以です。被造物の全て…私たち一人ひとりが御子を通じて神様の命に与ったのです。だからこそ、すべて人の命は尊いのですし、私たちはひとり一人も主にあって尊いといえるのです。
 このようなわけですから、もし尋ねる人がいれば、「イエス様は、この世においでになる前、世界が創られる前から御父と共においでになり、この世界を創り命を与えるお手伝いもなさっていた神の御子です。そして、あなたが生まれるずっと前からあなたを愛して、たとえあなたが何処でどんな風に生まれたとしても、あなたが生まれたことを誰よりお喜びになり、今も見守り、そして、そのこと全てにあなたが気づくのを待っておいでになるのですよ」と言ってあげたいと思うのです。
 子どもを産むのも育てるのも厳しいことの多い世の中です。生き辛いことの多い世界です。だからこそ、紛れもなき神であり御父の「言」でもあり給う主が、御父と共に「万物」を「成」らしめられた命の君であって、それゆえに私たちの救いのために十字架とご復活のみわざを成し遂げてくださったことを信じ、その恵みの約束に、より多くの人が真の希望を見出すことができるようであってほしいと願います。