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世のくずとされても

説教要旨(6月19日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一  4:6-13
牧師 藤盛勇紀

 パウロは伝道者たちの使命や働きを示しながら、キリスト者の生き方を語ってきました。それはあなた方が高ぶることがないようにするためだと言います。ところが、コリントの信徒たちは高ぶり、思い上がっているので、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」とパウロは問い、その言葉は激しさを増して行きます。「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっている」。「あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」。この極端なコントラストは、皮肉も込めた痛烈な批判です。パウロの言葉はさらに刺激的な表現になり、そして最後はこうです。「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」。
 「死刑囚」のような「見せ物」だとは、侮辱され罵倒されながら十字架で死なれたイエスの姿が重なります。この十字架に神の御心が完全に現されたように、それを伝える者も、「キリストのために愚か者」とされ「侮辱され」ます。そこに神の御心が現されています。「十字架の言葉」は世の知恵からは「愚かなもの」。「人の知恵」は神を知ることも信じることもできないからです。だから、キリスト者が侮辱されるのは必然であって、「わたしたちはキリストのために愚か者となっている」ことの証しです。
 イエス様は多くの病人を癒やし、めざましい奇跡を行い、「この人こそ本物のメシアではないか」と民衆の期待を一気に集めました。ところが、やがて人々は不信感を抱きます。イエスは平気で娼婦たちの所に行き、ヤクザや売国奴のような連中と楽しく食事もしたので、「大酒飲みの大食漢」だと悪口を叩かれます。「あんなヤツらと接したら汚れる。あなんな連中と交わるな」と宗教家たちは教えますが、イエスは「世のクズ、あらゆるもののカス」とされる人々と親しく交わり、罪人たちの一人となられました。イエスは言われます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」(マタイ9:13)。
 「正しい者はいない。一人もいない」と聖書は明確に告げます。そして「正しい人は、信仰によって生きる」と。正しい人は信仰者だ、などということではありません。「正しい(義)とは」信仰によって生ける神と共に生き生かされていることです。
 私の内におられるイエスも、「言葉や理屈で自分の正しさなど主張するな。信仰によって私と共に生きることこそ義だ。それをお前の生き方で示せ」とチャレンジされます。罪人の自分を曝け出せ、侮辱されたら祝福してみよ、罵られたら優しい言葉を返してみよ、と。そうです、ここでパウロが言っていることです。
 主が私の内に住んでいてくださって、私も主のようにされている。その事実を喜べる時こそ、イエスのみ言葉が実現します。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」。
 善人の衣など要らない、宗教の衣なんか要らない! 私はキリストを着たからです(ガラテヤ3:26-27)。だから人が私のことを何と言おうと、それで私が傷つくことはありません。パウロも言いました。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」(3)。世のクズとされようがカスとされようが、私は裁かれない。罪を赦すのも裁くのも、私の主だけだからです。この恵みが私たちを自由にします。