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平和な生活を送るために

説教要旨(8月21日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 7:8-16
牧師 藤盛勇紀

 コリント教会からの問い合わせを受けて、パウロは主イエスのお言葉と自分の考えとを区別しながら慎重に語ります。ただ、何を語るにしても、主の御言葉に沿って考えています。「ある女に信者でない夫がいて」とは、新しい問題です。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている」。意外な言葉ですが、慰め深い言葉でもあります。「聖」とは「取り分けられている」ことですから、本人も自覚しないままに神のものとして取られ、生かされ、導かれ、用いられているのです。
 パウロは結婚に関する勧めをし、離婚についても指示を与えます。離婚はしない方が良いのは当然ですが、問題は、離婚はできるのかできないのか、良いのか悪いのか、白か黒か、ではありません。異邦人中心のコリント教会では、最初のユダヤ人の教会が思いもしなかった、旧約の律法も想定していない新しい世界、新しい時代が始まっています。その中で、「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召された」と。これは「神は、あなたがたを、平和へと召された」という言葉ですが、離婚というやっかいな問題との関連で言われています。あなたがどんな状態にあれ、神はそこで、あなたに何を望んでおられるか、です。
 イエス様は「平和を実現する人々は、幸いである」と言われました。誰もが平和を望んでいますが、どう実現するか、人それぞれ考え方が違います。どれほど平和を望んでいても、「そんなの知ったことか」と、ぶち壊す人がいる。せめて自分はささやかな平和に暮らして行こうと願っても、ズカズカと土足で踏み込んで来る人もいる。最も平和でありたい夫婦の間でさえ、そんなことがある。だからコリントの信徒たちも問いたのです。どう考えたらよいのかと。
 実際、平和を踏みにじり、かき乱す人がいる。その人の顔を思い浮かべたら、「ああ無理だ」と思います。平和どころか、ぶん殴ってやりたいという思いがこみ上げる。「主よ、無理です」と。たとえ私が忍耐しても、相手はそれを良いことに、「それじゃ、好きなようにやらせてもらう」と、いいように振る舞われることだってあります。
 そこでまず見るべきは、相手の顔ではありません。人の顔ではなく、平和を祝福される主を見つめるのです。「神が」私たちを平和へと招いておられる。だから私たちは、まず人を見るのでなく、「幸いなるかな」と祝福しておられる神の御顔、見えない主に目を注ぐのです。するとどうなるか。すると、私こそがこのお方との平和を破壊したのだ、と知るのです。あなたは神に対してどんな者だったか。私は何者か。神を侮り、神を見下し、「こんなモノ」と無視していた。そんな私たちに、神は何をなされたのか。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。
 私のために死なれたイエスの十字架が、私と神との間に打ち立てられています。「平和を生み出す者は幸いだ」。そうです主よ。でも私には無理そうです。あの人の顔を思うと「あんたが先に謝れば、こっちも謝ってやってもいい」となってしまいます。
 けれども、私はイエス様と出会いました。こんな私を諦めず、呆れるほどの忍耐をもって今もなお導き続けておられます。だから、私も私を諦めません。私には無理でもダメでも、またそこから始めるだけです。私に見込みがあるからではなく、神が私に絶望していないからです。それどころか、私は神に召され、イエスと結ばれて神の子とされて、終わりまで導かれています。
 結婚の問題にせよ、どんな人間関係にせよ、大変なことは分かっています。神がよくご存知です。焦る必要はありません。平和そのものへと、神が私たちを招き続けておられるのですから。