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世の有り様は過ぎ去る

説教要旨(9月4日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 7:25-35
牧師 藤盛勇紀

 パウロの話は、「未婚の人たちについて」と、再度結婚に関する話に戻り、「わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます」と言います。前の箇所でも、具体的な問題を考える時には常に「主によって召された」現実に留まることが肝要であることが示されました。「主の憐れみにより信任を得ている者」というのも、根本的には同じです。「信任」と訳されていますが、パウロのような、知恵深く経験豊かで人格高潔な人物に与えられるような信任ではありません。主の憐れみによって、信実な関係にあることです。パウロは教会の迫害者、キリスト者たちを捕らえては殺す者でした。そんな者を神は伝道者となさった。これは、全くの憐れみです。
 パウロは生けるキリストに衝突するように出会い、神の愛と憐れみに触れました。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのだ」と、主は呼びかけます。パウロは目も開けられずに尋ねます。「主よ、あなたはどなたですか」。答えがありました。「私は、あなたが迫害しているイエスだ」(使徒9章)。
 パウロは全力でキリスト者を抹殺しながら、実はイエスを迫害していたのです。しかし主は、「お前はなんてことをしたのだ!お前のような者は滅んでしまえ」などとは言われません。厳しい罰を与えて「自分の罪を思い知れ!」などとも言われません。ただ、「私は、あなたが迫害しているイエスだ」と言われたのです。
 パウロは後に、イエス様が十字架の上で発せられた言葉を他の弟子たちから聞いたでしょう。あの執りなしの言葉も、おそらく同労者のルカから聞いたと思います。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。聞いた瞬間、パウロは悟ったでしょう。このみ言葉は私のためだと。罪人のために命を捨てられた、この主の愛と憐れみが、罪人に命を与え、使命を与えるのです。私たちはそれぞれ、主の憐れみを受けて、各々に務めが与えられています。そのように召された者として、分に応じ、務めに応じ、置かれた状況に対応して判断し、行動していくのですから、時々に応じた主のみ言葉と御心が現されてきます。
 パウロは「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです」と勧め、「定められた時は迫っています」と言います。これは、初代教会が主の再臨が切迫していると感じていたことも反映されていると思われますが、パウロはもっと基本的なこと、信仰生活の根本的なことを語ろうとしています。前回の箇所で指摘した翻訳上の問題の一つは、「神に召された時の身分のまま」と訳されている所は、「身分」のことを言っているのではなく、「神が召されたとおりに」ということあり、20節や24節も、「召されたときの身分に」とどまれ、ということではなく、「召されたその召しに(召しの中に)とどまっていなさい」です。決して、ある「身分」のままでいなさい、ということではないのです。あくまでも、神に召されて神のものとされている事実に生きて、考えようとしているのです。
 「召されている」とは呼ばれていること。パウロのように、罪人でありながら親しく名を呼ばれ、憐れみをもって受け入れられているのです。そして、主があなたを呼び寄せるのは、あなたに用があるからです。
 「この世の有様は過ぎ去る」。だからこそ、過ぎ去るものに囚われず、「思い煩わないで」、過ぎ去らず失われない真理によって生きるべきです。大事なことは「世の事に心を遣」か「主のことに心を遣」かです。主に心を遣い、主に仕えることこそ、真に世に仕えることになります。世のためを考える人は、世を愛される主に仕えるべきです。世を愛する人は、主を愛しているからです。