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神の霊を受けて生きる

説教要旨(9月11日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 7:36-40
牧師 藤盛勇紀

 コリント教会からの問い合わせに答えるためとは言え、こんなことまで勧めなければならないのかと思わされます。教会内の目に余る道徳的堕落の反動で、潔癖主義、独身主義の人たちも現れ、両極端の分裂状態だったようです。ただ、結婚のような具体的な問題は、この地上の生活の問題であって救いに関わることではなく、人と神との関係を規定してしまうこともありません。
 度々確認していることですが、私たちはそれぞれどんな状況で、どんな人間関係にあろうとも、神に召されていて、具体的にはキリストに結ばれて生きているのです。だから、具体的な問題へのパウロの答えも一見どっちつかずのようにも思われます。態度決定や具体的な行動が求められる問題の中で、人はそれぞれ、各々が主に結ばれた者として決断をするのです。
 「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが…」との勧めも、「しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です」と言うので、結局どちらでも良いと言っているように聞こえます。実際パウロは「こうでなければならない」とは言いません。いつでも「キリストにあって」「キリストのもの」「キリストに結ばれた者」として、言い換えれば、神に愛され、神の憐れみを受け、神に呼ばれ、神のものと召された者として考え、判断し、証しするように、勧めています。
 最後の言葉は、何か唐突な感じがします。「わたしも神の霊を受けていると思います」。これはパウロが一貫して考え語っていることです。「神の霊を受けている」から、神の愛を知り、キリストの恵みを知り、その恵みに応える者とされているのです。「わたしも」と言うのは、全てのキリスト者がそうだからです。男女の問題から結婚に関する様々な、やっかいな問題にまで答えながら、パウロが言うことは《私もあなたがたも神の霊を受けている》、これなのです。
 「と思います」とは、ぼんやり思うことではなく、《私はそう考え、判断している》ということです。決断や行動の根にある「思い」です。この「思い」があなたの考えを方向付け、あなたの判断となり、行動となり生き方となって、現れ出ます。もちろん、どうすれば良いのか分からない時もあり、どちらを選ぶべきか判断しかねて逡巡する時もあります。しかし、そんな時であっても、「わたしも神の霊を受けている」のです。
 あなたの思いは何ですか。心の内には複雑な感情が生起し、うごめいています。様々なことを意志します。そうした私たちの心の思いの根底に何があるのでしょうか。
 「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」「わたしたちはキリストの思いを抱いています」(2:12,18)。
 神から「恵み」としてどんなものを与えられたのか。それはイエス・キリストです。私たちは主の霊をいただいて、すでに自分の内に「キリストの思い」を持っています。神の御子だけが持つ思い、それが私たちの内に、すでに与えられているのです。
 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ8:14-16)。
 幼子が、嬉しい時も不安な時も、失敗した時、悲しい時にも、「パパ」「ママ」と呼ぶように、どんな時にも、私たちは神を「アッバ」と呼びます。私たちの問題の解決というのは、賢い判断や優れた人の考えに従うことなどにはありません。私たちが事実、神の子であること、「アッバ」と呼べることです。私たちは神の子とする霊を受けた、それは「私もなのだ」と生きるのです。