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福音を告げずにいられない

説教要旨(10月23日 夕礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 9:13-18
牧師 藤盛勇紀

 「権利」とか「報酬」という話が続いていますが、ここでパウロは、自分たちに向けられていた批判に関する議論を終わりにします。伝道して報酬を得ることは当然だと示しながら、《福音を宣べ伝える働き》と《報酬を得る》ことを切り離したいのです。そこで、パウロは無報酬に徹することで、身を以てそれを見せたのです。その上で、「なぜ福音を宣べ伝えるのか」を語ります。「金のために伝道している」などと言われたくないし、そんなことを考えてもいない、では、なぜ伝道しているのか。
 パウロはしばしば「誇り」について語りますが、ここで何の説明もなく「わたしのこの誇り」と言います。人と比べて自分にはこれがある、などといった誇りではありません。そのような誇りは傷つけられたり失ったりします。パウロが抱く誇りは何か。彼がよく使う表現で言えば「キリストの僕」「神の奴隷」であることです。奴隷であることこそ、何よりの誇りでした。これは、決して傷つけられたり失われたりはしない誇りです。《主と私》のことだからです。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか」(1)と言ったのもそうです。人とは全く関係無いパウロのプライドなのです。
 教会の迫害者だったパウロは、直接イエスと出会って180度転回しました。パウロに対しては、いつまでも疑いの目が向けられ、批判されていました。「本当にキリスト者なのか」「本当に使徒なのか」と。でもそんなことはどうでもよいのです。パウロがイエスと出会って知ったことは何だったか、ガラテヤ書でパウロは語っています(1:13-)。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず」、伝道するようになったのだと言います。神から直接御子イエスを啓示された、何とも言いようのない光栄に満ちた経験です。私の神が、この私を捕らえてくださって、いまこのように生かしておられる! これが誇りなのです。
 ところが、ここでパウロはこう言います。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。
 パウロにとって、福音を宣べ伝える者とされていること自体は、私の誇りと言えるものでした。しかし、福音を宣べ伝える働きは、誇りにはらないのです。なぜなら、「そうせずにはいられないことだから」。必然であり、必要に迫られたやむを得ないことだからだと言うのです。なぜこれほどに迫られているのか? それは、パウロ自身福音に触れたからです。福音は神の一方的な恵みであり愛であり、私たちのために神ご自身が胸を焦がし、はらわたを締め付けられるような、神の憐れみなのです。
 神から離れた私たちを御自分のものとして取り戻し、子とするために、神は人間となってしまい、罪人とされ、唾を吐きかけられ、鞭打たれて、神に呪われた者として、最も惨めな姿で十字架にかけられました。神はそれを願われたのです。私たちが滅ぶことは、神には耐え難いのです。私たちを愛し、深く憐れんでおられるからです。
 この憐れみに触れられたら、伝えずにはいられません。イエスは私のために命を捨てられた。このお方は私をどこまでも赦し、どこまでも求め、どこまでも生かしてくださる。だから「誇る者は主を誇れ!」。だから「福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません」。「疲れ果てる」ほどに、主の憐れみに捕らえられた者は(エレミヤ20:7-9)、逆に、疲れることなく倦むことなく、折りが良くても悪くても、その福音を伝え続けるのです。