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朽ちない冠を得るために

説教要旨(11月6日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 9:24-27
牧師 藤盛勇紀

 今朝は、先に神に召された人々を覚えながら礼拝です。悲しみを新たにした方もあるかもしれませんが、パウロはテサロニケの信徒への手紙一でこう言いました。「既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。そこで何を語ったかというと、イエスを信じて死んだ者は、主イエスの死と復活に結ばれている、いつまでも主と共にいる、この希望によって「励まし合いなさい」と言うのです。
 今日の直前の箇所でパウロは言いました。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。福音はそれ自体が命です。「私は真理であり命であり道である」と言われた方によって命を与えられ、生かされ、導かれ、完成させられます。福音はまさにイエスご自身です。道であるイエスと共に生き、この方が示すところを目指して、この方を世の人々に伝えながら、「福音に共に与る者と」なりながら歩んで行くのです。
 どこを目指して行くのでしょうか。その目標についてパウロは、「賞を受ける」「朽ちない冠を得るため」と言います。競技場で走る人のイメージです。「賞を受けるのは一人だけ」とありますが、優勝者だけが賞を得るのではありません。「あなたがたも賞を得るように走りなさい」とあるように、私たちはキリストという道を走りますが、一人一人に踏むべきコースがあり、一人一人に走り方があるのです。《あなたの道》で《あなた自身が》賞を受けるのです。
 この目標は、この地上にはありませんし、地上の生の終わりの死が目標でもありません。目標は目では見えませんが、目で見るよりもはるかに確かで決して失われることのないものです。聖書はそこを「本国・本籍地」「天の故郷」あるいは「神の都」とも言います。旧約の信仰者たちは、まだ見たことのないものを信仰によって見ていました。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。…神は、彼らのために都を準備されていたからです」(ヘブライ11章)。
 福音を聞いて信じて神の命に与った人は、イエスと一つとされたことを知り、天に属する者となっていることを確認させられます。この事実は目には見えないけれども、私は御子イエスに結ばれた神の子、共同の神の相続人であり、すでに天のあらゆる良いものに与っている。だから「喜びの声をあげ」、感謝しているのでしょう。信じていなければ、この喜びも感謝も、賛美もなかったでしょう。
 こうして、私たちには目には見えない目標があるので、目に見えるこの地上での走り方もそこに向けて、あらゆるものを生かして行きます。それをパウロは「節制」と言います。姿勢については「自分の体を打ちたたいて服従させ」る。これは、厳しい禁欲の生活をするとか、何でも切り詰めてギスギスの生活をするといったことではありません。「空を打つような拳闘はしない」のです。目的のない苦行ではないし、出たとこ勝負の当てのない戦いでもない。むしろ、熱望している目標に向けて、今持っているものを総動員することです。あれを生かし、これも用いる。そのために、自分に与えられているものを自らコントロールし整えて行のです。すると、この地上の歩みで無駄なものは無くなって、「こんなもの」と思っていたものも生かされます。つまり、ますます豊かになるのです。そのようにして私たちは、天にある豊かな祝福を、この地上で味わいながら進むのです。