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神に召された者として

説教要旨(8月28日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 7:17-24
牧師 藤盛勇紀

 結婚に関する問題を扱う中で、私たちが何者なのか、基本的な在り方や生き方が何であるかが示されています。一言で言えば、神に愛されている者として考えることです。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」とありますが、ここの後半の訳は注意が必要です。直訳的には「主から分け与えられたとおりに」で、「身分」とするのは誤解を招きます。20節や24節も同様です。「召されたときの身分」というより、「神に召されたその召しにとどまっていなさい」です。あなたが、神によって召された者であり続けることでしょう。
 21節も解釈により正反対の翻訳になり得る所ですが、「…になりなさい」「…でいなさい」は、「用いなさい」という意味で、たとえば奴隷であれば、その状態を生かすことも考えられます。ただ、自由の身になる機会があるならば、その機会を生かすのも当然でしょう。各々が主から分け与えられ、それぞれ神に召されたその召しにとどまれ、ということであり、パウロは「すべての教会でわたしが命じていることです」と言います。どこでも変わらない根本姿勢です。
 ユダヤ人にとっての生命線である割礼の問題についても、パウロの姿勢は明確です。「割礼の有無は問題ではない」、しかし「大切なのは神の掟を守ること」。これは矛盾ではありません。キリストによって律法の要求は満たされ、儀式や司法としての律法は廃止されました。罪赦されるために献げ物を献げる必要はなく、律法違反が裁かれることもありません。ただ恵みによって救われた者の信仰生活の方向指針として重んじられます。主から与えられた掟は、愛し合うことだけです。パウロはユダヤ人の慣習として律法を重んじましたが、キリストに現された「神の愛」を根本動機・究極目標として、愛の自由をもって聖書を自由に解釈したのです。「福音のためなら、どんなことでもする」と言い(9:23)。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されること」(ガラテヤ6:15)、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(2コリント5:17)と言います。
 「新しく創造された者」「新しい人」であるキリスト者には、新しい秩序があります。ここで語られていることも、最も大事なことは、私たちは「神によって召された者」であって「自由の身」とされた事実です。自分がどんな身分や状況にあろうと、これは変わることはありません。
 自由な者だからこそ、主の恵みを証しする生活のために、現在の状態を維持したり、恵みを生かして用いるために、ある状態にあえて留まる決断もあります。自分の主人を愛しているがゆえに、積極的に奴隷に留まることもあり得ます。「主によって召された自由な身分の者」である私たちは、キリストのものなのです。キリストはご自身を犠牲にし、私たちはその「身代金を払って買い取られた」。だから「人の奴隷となってはいけません」と言うのです。
 「身分」と言うならば、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章)。
 私たちはこの方の命という尊い代価を支払われ、その血によって贖い取られて「神のもの」とされました。神の命へと召されたのです。召されたとは呼ばれていること。あなたは神に呼ばれています。愛するあなたを失いたくないから呼ぶのです。あなたをそばに置きたい、あなたの傍にいたい、あなたに用があり、あなたが大切だから、呼ぶのです。この「召し」を知ったら、もはや「人の奴隷」になることはありません。だから、「神によって召された、その召しにとどまって」いたいのです。