ホーム | 説教 | 説教(2022年度) | 出来損ないのその先に

出来損ないのその先に

説教要旨(5月8日 朝礼拝より)
イザヤ書 5:1-7
牧師 加藤英徳

 新年度になって一カ月が過ぎ余裕が出てきたこの頃、理想と現実の間に大きな開きを感じ「こんなはずじゃなかった」とか「どうしてこうなった」という思いになる事があります。それは信仰の歩みにでも起こります。始まりの時のあの喜びと緊張感に「どうせ」という思いが入り込み神様に背を向けるのです。
 ところで、神様と私たちとの関りは何もないところに御言葉(おことば)だけで神様がこの世の全てを創造された時からになります。そこで私たちは神様から生きるものとなるため命の息を私たちに吹き込まれたのです。言ってみればそうやって神様の理想の存在として創られたのです。イザヤ書は、そんな私たちと神様との関係を農夫と彼が準備する最高のぶどう畑の様子になぞらえて告げます。農夫は植えられる木の全てに日の光が十分に当たり豊かな実を結ぶようにと願い畑の場所として丘の斜面を準備します。そこをたがやし、石を取り除くのです。そして「良い」ぶどうの木を植えます。鳥や泥棒からぶどうを守るため、一帯を見渡すことが出来る見張りの塔を準備します。そして収穫後の為に酒ぶねを準備するのです。
 ところがです。「私がぶどう畑のためになすべきことで何かしなかったことがまだあるというのか」と嘆いているように、あれほど手をかけたぶどう畑は良い実ではなく使いようのない酸っぱい実で農夫の期待を裏切るのです。それは私達も同じです。あれほど神様から特別な存在とされた私たちは神様に向かって「こんなはずじゃなかった」とか「どうしてこうなった」というつぶやきを実らすのです。そして与えてくださる恵みを拒み、挙句「どうせ」という思いに支配され神様に向かって卑屈になるのです。質の悪い事にそれらは無意識のうちに私達の中に入り込んできます。
 このぶどう畑の話をイザヤが告げる当時のユダの人々もそうです。彼らは強大な国に囲まれながら自国の独立を守る為、隣国と同盟を結びましたがそれらの影響力が国内で大きくなり、その結果神様以外に気持ちが流れていったのです。彼らの「これをする事は神様との間で善いことだろう」の思いが神様との関係に隙間を生じさせたのです。行動したことが神様との間で酸っぱいブドウの実でしかない、そしてその隙間を自力で埋められないのが私たちです。そんな私たちの姿は神様にとって出来損ないの状態です。
 その苦労が報われなかった農夫の怒りを与えられた箇所から知らされます。その様子を与えられた箇所は神様が本来お求めになった裁きと正義が、流血と叫喚になったと記しています。それはまさに見捨てられたような絶望を感じさせるのですが、告げられているのはそれだけではありません。なぜなら「怒り」は、相手への無関心からではなく関心によって引き起こされるからです。つまり、あの農夫の怒りの姿はあの畑に無関心になったからではなく、彼がどれほど思いを向けていたのかの現れであり、まだ関心があるから出来損ないの畑を怒るのです。その神様が私たちの為に御自分の独り子イエス様をこの世に来させあの十字架を通して私たちの中に無意識に入り込んで来る神様以外の事を取り除いてくださるのです。そればかりかその場所に何かが入りこまないように神様があの初めの時私たちに示された特別の関係を改めて注いでくださるのです。