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あの時の熱意を今

説教要旨(8月29日朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 9:1-5
牧師 藤盛勇紀

 エルサレム教会支援のための献金に関することが語られてきましたが、パウロはここで具体的な指示を与えます。コリント教会はこの支援運動にいち早く参加したのに、一年も経たず頓挫してしまいました。初めは「多くの人々を奮い立たせる」熱意や力があったのです。ここで「熱意」とは、神の愛と恵みに触れられていることです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」(8:9)このキリストの恵みによって突き動かされていることです。
 神に敵対していた私のために、神の御子が血を流し命を注ぎ出された。滅ぶべき者のために、主なる神が…。教会は、そのように信じて恵まれた者たちの集いです。そこにパウロが言う「あなたがた(私たち)の熱意」があります。「熱意」という言葉が2回出てきますが違う言葉で、後の「熱意」は多くは「熱心」と訳します。初めの「熱意」は、喜ぶという意味の言葉で、その喜びによって燃え立たされた思いが「熱心」として現れた。そのようなコリントの信徒たちをパウロは「誇る」と言いますが、実はこれも《喜び》なのです。あなたがたは主の恵みの証しなのだとパウロは喜んでいる。それが誇りです。だからそれは「感謝」でもあります。
 パウロは喜びながらも、「恥をかくことがないように」「用意」してくれと、つまり実際に献金を用意しておいてくれと言い、「贈り物の用意をしてもらうことが必要」だと言います。この「贈り物」は「祝福」という意味があります。つまり、神の恵みの具体的な現れです。それがここでは献金という贈り物のかたちになって現されるわけです。
 だからこそ、その献金は単に集まればよいということではなく、「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意」されたものであることをパウロ求めるのです。神の恵みに触れたあの時のあの喜びと祝福に触発されて生まれたもの。その熱意は、神の愛の熱意から出たのです。それが現われ出たものがこの贈り物・献金であり、それは祝福であり喜びであり感謝です。金額の多寡ではなく、共に神の恵みと福に与っている喜びです。それは溢れ出て、見える仕方で現れ出る「証し」にもなります(⇒8:24)。「証し」とは難しい話ではなく、喜んでいること。「恵まれているんだな」と見れば分かる。それで十分なのです。
 ここでの話は「聖なる者たちへの奉仕」のことでした。「奉仕」は「援助」とも訳されますが、「援助」は余力や余り物でもできます。しかし「奉仕」は仕えること。自らを主にお献げして用いていただくことです。時を献げ、力を献げ、持っているものを献げ、まさに身を切り、時に身銭を切るわけです。
 コリントの信徒たちも、初めは主の恵みに応えて募金活動に参加しました。だからパウロはその熱意について各地で語り、それが諸教会の励ましになり、喜びになりました。ただ、その後にコリント教会の奉仕は頓挫してしまいましたが、それでもパウロはコリント教会を誇っています。彼らがどれほど堕落したり挫折したりしても、彼らは主の御言葉によって恵みに立ち帰り、恵みによって立ち上がったからです。
 私たちも熱意が冷めたり、自分の弱さや欠けや愛の無さばかりが気になることがあります。しかし、そうした自分の弱さを見つめてため息つくのはもう止めて、そんな私たちに現れ出る恵みを見ることです。パウロも言いたいのです。「問題の多いコリント教会を見てください。あんな彼らも立ち上がったのです」。問題に満ち、挫折もしたけれども、そんな彼らが、私たちが、キリストによって立ち上がって生きている! 使徒たちが言ったように「キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」と、私たちも言い合えるのです。恵み深いあなたの主キリストが、生きておられるからです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。