ホーム | 説教 | 説教(2021年度) | 豊かな者はさらに豊かに

今週の説教

豊かな者はさらに豊かに

説教要旨(8月1日朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 8:1-7
牧師 藤盛勇紀

 パウロは改めて「神の恵み」を知らせましょうと言い、具体的な話をします。「神の恵み」と言えば、良いものを「いただいた」ことだと思われます。ところが、ここで語られるのは、マケドニアの諸教会が献金運動に参加した話です。つまり、《いただいた》話ではなく《与えている》話なのです。
 エルサレムで生まれた教会はユダヤ人たちの集まりでした。しかし、彼らが十字架につけたイエスを神の子・キリストだと信じるわけですから、当然ユダヤ社会で激しく迫害され、エルサレムに踏みとどまった主立った人々は孤立無援。パウロたちは、彼らを援助する献金を呼びかけたのです。また、最初の教会はユダヤ人の教会ですから、異邦人に対する偏見が根強くありました。パウロらの異邦人伝道によって多くの異邦人教会が生まれましたが、異邦人に福音を伝えること自体、反対する人たちも多く、初代キリスト教会はユダヤ人と異邦人とに分裂する危機にもありました。
 パウロは、神の恵みのもとに教会が一つとされていることを知るためにも、異邦人教会が、ユダヤ人中心のエルサレム教会を援助することを呼びかけたのです。マケドニアの諸教会は積極的に参加しましたが、《持っている者が持たない者を助ける》ということではありません。マケドニアの諸教会は迫害の中にあり、経済的にも「極度の貧しさ」にあったのです。ところが彼らは、自分たちの力を超える援助を、自ら強く願い出て行ったというのです。
 金銭による援助は、与える側・受ける側双方同じ思いにならなければ、微妙な心理が働き、ややこしい問題が生じたり、互いに傷つく結果となることもあります。しかし、教会には双方を一つにするものがあります。それは《神の恵み》です。生きて働かれる神の恵みこそが、与える人の傲慢を砕き、受ける側の卑屈さを克服させます。マケドニアの人々はこの「神の恵み」がよく分かっていました。憐れみに満ちた神が、いついかなる時にも自分たちを生かし万事を益としてくださる、その事実をキリストにあって味わい知って生きていたのです。だから極度の貧しさの中でも感謝が失われることがなく、まさに恵まれていたのです。
 ところが、コリント教会の人々にはそれが分からなくなっていました。彼らは様々な賜物という面では恵まれていました。実は10節にあるように、この献金運動に先駆けて参加したのはコリント教会でした。ところが挫折してしまったようです。神の恵みを上辺だけで理解していたからでしょう。
 一方マケドニアの諸教会は、極度の貧しさの中にありながら、「慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに」願い出た。しかも「彼らはますます主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」といいます。彼らは《自分自身を主に献げた》のです。それが具体的には献金運動への参加に現されたのです。
 4節の「慈善の業」との訳は少々原文の意味から離れています。口語訳も新しい協会共同も「恵み」です。慈善の業に参加したいというより、「恵みに与りたい」です。奉仕することがなぜ「恵み」なのか。私たちが為す「恵みの業」も、主なる神が、自分を献げる私たちを用いてご自身の恵みの業を現してくださるからです。私たちは貧しいのに、豊かに用いられ、豊かに生かされる、だから感謝なのです。
 神が、私たちを用いてくださいます。 もし自分の持ち物や能力でなんとかしようとしたら、「不足」を思い知るだけでしょう。その前に、「何も持っていない私なんか」と、よくある偽りの謙遜を持ち出すこともあるでしょう。しかし、与えてくださるのは神、用いて下さるも神、良き働きをしてくださるのも神ご自身です。私たちの主なる神は、「極度の貧しさ」からでさえ、溢れ出るように豊かにしてくださいます。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。