ホーム | 説教 | 説教(2021年度) | 神の熱い思い

神の熱い思い

説教要旨(10月17日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 11:1-6
牧師 藤盛勇紀

 この11章でパウロは珍しく自分自身の体験に触れています。しかし、自分のことを語ることは実に愚かしいことだとしながら慎重に語ります。それで最初に、「私の少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」と話し始めるのです。そしていわゆる偽使徒・偽教師たちの問題を取り上げます。「異なったイエスを宣べ伝え」「違った霊や、受け入れたことのない違った福音」を伝えていた危険な人たち。彼らを、エバを誘惑して神に背かせた蛇すなわちサタンになぞらえています。なのにコリントの信徒たちはそれに「我慢している」。半分皮肉ですが、悪魔的な力を振るう偽教師たちを、コリント教会は喜んで受け入れていたのです。
 イエス様は弟子たちに対して、偽預言者に警戒せよと言われましたが、そのような存在がコリント教会に見られました。イエス様が言う偽預言者は、「しるしや不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちを惑わそうとする」者です。特別優れた力を持ち、能力を誇示して人を惹きつけます。それに対してイエス様は、御自分がメシアであることを証しする業は行いましたが、力を誇示するようなことはなさらず、ただ、父なる神の御心をこの地に現されたのでした。
 ただ主の御心を生きたパウロも、自分が持っている優れたものを決して誇らず、むしろ人に誇れるようなものは捨てました。キリストに生かされているなら、自分のものを誇ることは何の意味もなく、自己中心の罪を呼び込む危ういものでしかなかった。だから「誇る者は主を誇れ」と言います。自分の知識を誇ろうとする人々に対してはこう言いました。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」(1コリント8:2-3)。自分を誇ろうとする人は神を知らず、神に知られ、愛されている自分をまだ知らないのです。だから、人に対して誇れるものを求め、それを誇示し、人に認めてもらいたいのです。
 神を知るとは、頭で知る知識ではありません。この私が他でもないこの方、私の神なる主から知られていると知っている、そのような私として生きていることです。何とありがたいことか。神に背を向け、反逆していたこの私のために、神は独り子さえ惜しまず死に渡され、御子はこんな私のために血を流してくださった。それを知っているのです。そのような神の「熱い思い」を知っている。コリントの信徒たちにもこの「神の熱い思い」が注がれている。だからパウロは、「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」と、大胆にも言えたのです。
 ところが、コリントの信徒たちは偽教師たちに誘惑されて真の福音から逸れて行こうとしていました。偽教師たちは生前のイエス様に従っていた人々だったかも知れません。特別な経験や能力を持ち、雄弁家でもあったはずです。それに比べたら、パウロはイエスに従って歩んだ経験がないどころか、迫害者だった。おまけに「話はつまらない」と悪口を言われる。パウロは自分で「話し振りは素人でも」と言います。話下手だったはずはありませんが、人を魅惑するような話はできなかったのでしょう。雄弁さでは、パウロよりはアポロでした。
 しかし神の霊によって「神が抱いておられる熱い思い」を抱くパウロは、神から離れるコリントの信徒たちが妬ましいのです。なぜそっちに行ってしまうのか!妬むほどに神から愛されていることを知れ! パウロは「話し振りは素人でも、知識はそうではない」と言います。神の霊による愛の知識です。神は熱情の神、妬む神。この妬みに触れた人は幸いです。難しいことではありません。あなたが自分の思いを自分から離して神に向け、求めるならば、そこにあります。神の愛は溢れ出ているからです。