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弱いときにこそ強い

説教要旨(11月7日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 12:1-10
牧師 藤盛勇紀

 「キリストに結ばれていた一人の人」の神秘的な体験が語られていますが、これがパウロ自身のことだとは、すぐ分かると思います。当時のコリント教会では、一種の神秘的行為としての異言や霊的熱狂主義が横行していました。おそらくパウロの敵対者たちは、パウロは信仰的に未熟で神秘的な体験もないといった批判をしたでしょう。パウロはその批判にぶつけるように、はるかに神秘的で深く高い体験を語るのです。しかし、これが自分の体験だと言えば「私を過大評価する人がいるかもしれない」。「さすがはパウロ先生だ」と今度はパウロに飛びつくようなことになって、また教会が混乱するだろう。だからこの素晴らしい体験が自分のことだとは言わない。これは、自分の経験をひけらかす敵対者・偽使徒ちとパウロの決定的に違うところです。
 「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と言います。ふつうは自分の弱さは隠して、人から評価されるものを表に出して誇るのです。直前の箇所でパウロは、キリストに仕える者としての自分を誇りましたが、その誇りの内容は、艱難苦難、飢えや迫害、さらに日々のやっかい事や心配事でした。キリストを信じて従っているのに、踏んだり蹴ったりの連続の人生、悩みの尽きない日常です。
 この「誇り」の意味を知るために重要な事実は7節以下のパウロの経験です。「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです」。身体の「とげ」とは、パウロを苦しめていた病気だったでしょう。あるいは広く解釈して、パウロが受けていた誘惑だとも言われます。直前に語られた苦難や迫害もそうです。それらは、人を神とその恵みから引き離す力として働くので、誘惑でもあるのです。
 私たちも苦難の中で限界と行き詰まりを感じ、自分の弱さを覚えます。しかし、本当の弱さは、苦難の経験の中で、神から離れてしまうことです。「神は何をしている」「どうせ神はこんな状況を変えられない」と、神も恵みも見限る。この恐ろしい思い上がりが、本当の弱さでしょう。
 パウロは「この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」と言います。三度とは回数ではなく、繰り返しくりかえしということです。この苦しみの中でパウロは、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という主の御声を聞きます。この主ご自身の言葉によって、主の恵みがいかに自分に満ちているか、恵みがいかに力あるかを知りました。神の御力は今、この私に実際に発揮されているではないか!
苦難を克服したから恵みなのではない。強くなったからでも、病気が癒されたからでもない。自分が弱った時にも決して失われない恵みがある。いや、弱さの果てに死ぬ時にも、この恵みは失われない!
 パウロは、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と言いました(ローマ14:8)。生きてよし、死んでよし。私たちは生きるにしても死ぬにしても主のもの。これが唯一の慰めであり、生きる時も死ぬ時も、私たちの真の誇りです。
 「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」。常に途方に暮れるような人生。けれども、常に私を傍らに置いて用いてくださり、み言葉を下さる慈しみの神を知っているのです。
 恵みは、私たちのために最も低い所に降られた十字架の主から来きます。この方が「私の恵みはあなたに十分なのだ」と言われる。私たちがこの方のものであるなら、もう不足はなく不満も不平もありません。もはや哀れな私でもなく、恵まれた私です。