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弱そうだが強い

説教要旨(9月26日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:7-11
牧師 藤盛勇紀

 パウロは「あなたがたは、うわべだけ見ています」と言います。パウロの伝道によって生まれたコリント教会の中に、パウロに対する誹謗中傷がありました。偽教師たちによる混乱が背景にありますが、「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」とか「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると、弱々しい人で、話しもつまらない」などというのです。
 パウロという人は、福音を伝えるために数々の艱難辛苦を乗り越えた人ですから、心身共に力強さがありましたが、持病に悩まされていたこともあって、見た目に弱そうな所もあったようです。本当に彼は使徒なのかとかキリストの権威が感じられないとか、霊的な人ではない、「肉に従っている」とまで言う者もいました (2)。そんな批判に対してパウロは「勇敢に立ち向かうつもりだ」と言い、「あなたがたは上辺だけ見ている」「自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみよ」と警告します。
 「自分がキリストのものだと信じきっている」のは素晴らしいことですし、キリスト者にとって最も大事な自己理解です。しかしコリント教会では歪んだ意味で言われていました。つまり、自分たちのことを「私たちこそキリストにつくものだ」と自称し誇っていたのです。第一コリント1章にあるように、教会はいつくかのグループに分裂する危機に直面していました。ある人は「私はパウロにつく」と言い、ある人は「アポロにつく」「私はケファ(ペトロ)に」「私はキリストに」などと言い合っていました。「私はキリストにつく」とは、「自分たちこそ他の人たちよりもキリストとの結びつきが強い」とか「真にキリストに結ばれているのは私たちなのだ」と誇ったのです。「私は○○先生から洗礼を受けた」「○○先生の謦咳に接した」「直接手ほどきを受けた」と。しかしパウロは、「私はただキリストのもの」という一事に生きた人でした。
 なのに見た目が弱いとか、他の偉い先生方と比べると存在感がないとか、上辺を見て「キリストのものかどうか」を判断する。それは正しいことなのかとパウロは問いかけます。上辺を誇ろうとすれば、パウロほど誇れるものを持った人はいませんでした。しかし、直後の12節で言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどどは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。
 「自分たちこそキリストのもの」と誇っている人々は決定的な自己矛盾に陥っていました。「自己推薦する者」「比較し合う」という言葉に表されていますが、自分が何によって生かされ、生きる意味を与えられているのか、誰によって自分の価値が見出されているのかが分からなくなっている。「キリストのものであることを、もう一度考えてよ」と言います。《私がキリストのもの》だとは、私は神の御子の血という尊い代価によって体も魂も精神も性格も全てを贖い取られて、神のものとされたということです。見栄えのする所とか人と比べて優れたところが神のものとされたのではありません。私たちはキリストの命と霊が注がれている尊い器です。
 だから、人の誹謗中傷を聞いてもそれを大事に溜め込まず、人の言葉に自分を預けないことです。むしろ「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)。
 結局《あなたの主は誰か》です。あなたの主は天地万物とあなたを創造された方。あなたはその方を知らず、むしろ侮っていたけれども、そのあなたのために命を捨ててくださった方。そしてあなたを生かし、用いられるあなたの神。この方を主とし、誇りとして、誇らしく生きるのです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。