ホーム | 説教 | 説教(2021年度) | 頼るべき一人の方

頼るべき一人の方

説教要旨(9月12日 朝礼拝より)
イザヤ書 2:6-22
牧師 加藤英徳

 福音書に目を向ける時、ファリサイ派の人々が「こうあるべき」と突き進んでいる姿を知らされます。同じように私たちも「こうすることがよい」とか「こうすべき」或いは「こうでなければならない」という思いに駆られて突き進む事があります。
 与えられた聖書の箇所でイザヤが語りかけている人々も、まさにこの時「思い込みからくる見当違い」の状態の只中を突き進んでいました。近隣との間で緊張状態にあった彼らは。自国滅亡という危機的な状況を自力で乗り切ることが出来ないと判断し、大国に貢物を送って支援を求め、目の前の脅威を乗り切ります。
 大きな国の後ろ盾を受け滅亡の危機を脱した彼らでしたが、貢物を送り支援を受けたという事実は相手国の支配を自ら進んで受ける事を意味しました。戦いに負け支配されることを嫌い、独立の為他国に助けを求めた彼らは、当初の願い通り戦いには負けませんでしたが支援を求めた国の属国となったのです。
 その結果、当時の指導者たちは神様の神殿の前に異教の神の祭壇を設置し、律法で禁止されている偶像を持ち込んで支配者への忠誠を表現しました。また、占い師や魔術師の行う儀式を通してその国の風習を取り入れたのです。
 そうやって支配国の風習を真似ながら時は過ぎていったことで、それらの振舞は自然と身につき、いつしか当たり前になり、結果として彼らは自分たちの神様以上に異教の神へと思いが向けられていったのです。一連の出来事によって彼らの中で起こった事。それは国が滅びないため「こうしなければならない」「こうすることが正しい」という思いで突き進んだ結果、神様を見失うという事でした。
 だからそんな同胞に向かってイザヤは「こうでなければならない」と見当違いをしているあなたたちを神様が見捨てたのだと言い、神様にはそんな自分勝手な彼らを赦さないでくださいと告げるのです。
 イザヤの言葉は続きます。そんな彼らに主の日が望む時、神様の怒りの前に私たちが価値を見出す高いレバノン杉や山、そして丈夫な城壁は価値を失い無意味な事に気が付く、つまりその日が来る時、意味のないものを大事にしていたのを知るようになるというのです。そして自ら引き寄せた罪が神様の前に明らかにされる、だからその時が訪れたら、あなたたちは神様の怒りを逃れるため岩や洞穴の中に隠れるようにというのです。
 聖書の出来事を振り返る時、神様から逃れられないことを私たちは知っています。イザヤもその事を知らなかったはずはありません。にも拘らず逃げる事を進めるイザヤの言葉は彼らの滅びを心から望んでいるようにも聞こえてきますが、イザヤがここで本当に彼らに告げたかったのはそうではありません。
 本位とは真逆の表現を用いてイザヤが告げたかったのは「思い込みが元になっている見当違いから離れて、本当に頼るべき神様の元に戻りなさい」です。私たちの髪の毛一本迄も残らず知っている、それほどまで私たちに注意を払ってくださる神様と向き合えという事です。神様と向き合う事で自分たちを縛り付けている「こうあるべき」や「こうでなければならない」の思いから解放されるようにという事なのです。
 示された箇所に目を向けながら今に思いを寄せる時、目の前の状況に私たちの心は「これが出来ないあれも出来ない」と下向きになっているかもしれません。そして「どうして」というつぶやきに縛りつけられているはずです。ですがそんな私たちの全てを神様は知っておられます。そして、私たちが御自分の方に向き直るよう、常に私たちの働きかけてくださっているのです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。