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キリストの弱さと力

説教要旨(12月5日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 13:1-5
牧師 藤盛勇紀

 「今度そちらに行ったら、容赦しません」。パウロはこれまでとは打って変わって強硬な態度を示します。「なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているから」だと。パウロがキリストの使徒だと言うなら、その証拠を示してみよと。しか、どんなに優れた説教者でも、自分の語る言葉を通して主が語っておられることを証明することなどできません。人間が神の言葉を語るなど到底不可能です。しかし欠けた器をも主はご自分のみ言葉を盛る器としてくださると信じて、説教者は語り、教会は聞くのでしょう。
 そこでパウロは言います。「キリストはあなたがたに対しては弱い方ではなく、あなたがたの間で強い方です」。こう言うのは、パウロはある意味で弱かったからです。コリントの人々はそう見ました。しかし弱く貧しく見える自分を通して、実はキリストが語ってくださっている。パウロは弱いとしても、「キリストは弱い方ではない」。
 一見弱いが実は強い。その真理が他でもない主イエスに現されたことを、パウロは思い出させようとします。そして、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられました」と、今度は「キリストの弱さ」を言います。十字架のイエスに、いったい誰が強さを見るでしょうか。全くの敗北、最も惨めな人間の姿しか見えない。人々は「イエスを十字架につけろ」と盛り上がる。イエス様はそんな人々に対抗することさえできない。最も深い信頼で結ばれていたはずの弟子たちに裏切られ、惨めに見捨てられた。
 世の賢人であれば、ソクラテスのように自ら毒杯を仰いで名誉ある死に方もできたでしょう。ところがイエス様は呪われた者として、強盗たちと一緒に十字架につけられ、強さや名誉や美の欠片もありません。ただ弱さ惨めさが晒されるのみ。一緒に十字架につけられた強盗も、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵り叫びます。お前はメシア、キリストなんだろ!何とか言え!何とかしてくれ!
 「キリストの弱さ」とは、何も無いただの弱さではありません。神に全く信頼しているがゆえの弱さでした。それは、この世の知恵、人間の知恵から見れば愚かしい、希望のないことです。しかし神は、ご自身への信頼を決して裏切らない方です。ご自分を信じる者を決してお見捨てにならず、イエス様は復活されました。そして今も生きておられます。それは、神に信頼する者には、はっきり分かります。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」との言葉が真実であることが分かります。
 「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」。パウロの姿もその言葉も、人には弱く見えました。パウロ自身それを否定しません。イエス様も、「お前はメシア、キリストではないか」と言われたのです。「お前はそれでもキリストか!」と。パウロ自身、その弱さの中で、主ご自身の声を聞きます。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この主の声、主の言葉は、それを聞く者にとっては、何よりも真実で、何よりも確かで、何よりも大きな力なのです。
 私たちも、「お前はそれでも伝道者か」「それでもキリスト者か」、「それでも人間か」と言われる貧しさ弱さ惨めさの中で、キリストが、力を発揮されます。
 ご自分を信頼する者のために、惜しまず命を注ぎ出し、貧しい者を神の子として生かし、死ぬべき者を希望で満たす。そのように、主は激しく働かれます。だから、私たちも、パウロと共に言えます。「わたしたちも、キリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、神の力によってキリストと共に生きています!」。