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罪の贖いの犠牲

説教要旨(4月11日 朝礼拝より)
サムエル記上 7:2-17
伝道師 杉山悠世

 十戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」。十戒が与えられたのは無理矢理に人々を神に従わせるためではありません。イスラエルの民が主なる神以外の支配から解放され、罪に陥らないためです。ただ、主により頼んで生きる事を、神との正しい関係に生きる事を望んでおられたからです。神を神としない。敬わない。そういった有様が罪です。かつて、神は人間の罪の代償として犠牲を献げる事をお定めになりました。この犠牲によって人の罪が赦されたのです。それは一時的な代償でしかありませんでした。繰り返し続ける必要があったのです。サムエルが子羊の焼き尽くす献げ物を献げました。ここで私たちは新約聖書でイエス・キリストが世の罪を担う子羊であると言われる事を考えないわけにはいきません。キリストは、神を敬わない罪人である私たちのために、唯一の献げ物として十字架で死んでくださったのです。これは、神の愛の業です。私達が備えた子羊ではありません。神が与えてくださったのです。この方は、すべての人の罪を覆ってくださる故に「世の罪を取り除く神の子羊」と言われるのです。
 悔い改めには痛みが伴います。自分の罪を主の前に注ぎだすのです。自分が罪人である事を告白するのです。自分の弱さや醜さを認める事でもあります。そして、自分の自覚している罪だけではなく、自覚していない罪にも思いを向けるのです。しかし、私達は自らの罪をいつまでも見つめるのではなく、この方によって与えられている救いに大いに喜び、この方によって神の義に私達も与る幸いに目をとめるのです。 サムエル記7章で私達は信仰の戦いに目を向けます。この世を生きていく中で、私達はキリストに結ばれて、新しい命に生きる希望を抱きながらも、信仰の戦いを戦わねばならないのです。ともすれば、私達は神を意のままにできると思いあがってしまう事があります。それが偶像の誘惑です。富や権力、強大な力もまた、それを拠り所とするならば偶像です。偶像を手に入れると、それらによって身を守ろうとしたり、その力を得るために誰かを排除したりするようになるのです。結果、本当に私たちがなすべき事を見失ってしまうのです。偶像は私たちの目を曇らせ、行くべき道を見失わせます。私達の思惑をかなえるために求めたはずの偶像に、私達自身が仕える物になってしまうのです。だからこそ、サムエルは偶像を取り除き「心を正しく主に向け、ただ主のみに仕えなさい」と言ったのです。いかなる権威も権力も、神のご支配の下にあり、神の上に置かれる権威はないのです。
 主なる神が与えてくださった圧倒的な勝利の出来事に対してサムエルは「今まで、主は我々を助けてくださった」と言いました。私達もキリストの犠牲により罪の赦しと和解という大いなる恵みをいただいています。悔い改めによって罪を理解する時、自責の念に留まるのではなく、神の哀れみに対する感謝と賛美がおこされ、その事によって私達自身が癒されてゆきます。悔い改めて和解に導かれても、直ちに生活の中の問題がなくなるわけではありません。私達を取り巻く問題の根本は罪に根差しています。私達は日々を繰り返してしまいます。だからこそ、祈りによらなければどうにもならないのです。十字架の贖いによる罪の赦しは、聖霊の働きによって私達に与えられます。それは、礼拝で共同で罪の告白をし、罪の赦しを求める祈りによって与えられます。礼拝の中でともに罪の告白をし、キリストによる罪の赦しを確信し、生涯にわたる信仰の戦いを続ける問う事が信仰生活です。けれども、それは苦しい戦いではありません。すでに、キリストの復活によって勝利の宣言がなされているからです。罪の赦しの言葉により、新しい自分に変えていただき、神のご支配が「今まで、我々を助けてくださった」という思いと、「これからも」主により頼み祈るのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。