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決して廃れない誇り

説教要旨(10月31日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 11:16-33
牧師 藤盛勇紀

 パウロは、「誇る者は主を誇れ」と言いますが、ここでは愚か者と思われることを覚悟の上で、自分に関わることをあえて誇って見せます。なぜでしょうか。
 パウロはコリントの信徒たちに妬みのような思いを持っています。それは11章の冒頭で言われた「神の熱い思い」つまり神の愛の熱情です。「神は熱情の神」だと旧約聖書にあります。愛しているからこそ、愛する者が滅びに向かって行くのを見過ごしにできないのです。「そっちじゃない!戻って来い!」と拳を振り上げるような神の熱誠の叫びです。だから神は「熱情の神」「妬む神」と言われます。「神は愛」だからです。
 パウロはその愛を知っているので、大胆に「神が抱いておられるのと同じ思いを私も抱いている」と言いました。この嫉ましいほどの愛をもって、あえて愚かになって誇って見せます。コリントの信徒たちは、偽使徒たちの偽りで見せかけの誇りに引き込まれ、キリスト者としての本当の誇りを失っていたからです。偽使徒は自分を誇り、ひけらかすことができるだけの知識や特別な経験、能力がありました。
 本当の誇りを失うと、自分の内なる価値を見失いって、価値の無いものに惹かれ、慌てて飛びついてしまいます。パウロは、「あなたがたは偽りの誇りに心が奪われているが、私たちには本当の誇りがあるのだ」と知ってほしいのです。それで、誇りたくはないけれども、空しい誇りの空しさを示すために、あえて誇って見せます。
 パウロが語る誇りは、ふつう人が誇るようなものとは違うものでした。パウロは自分がイスラエル人であること、アブラハムの子孫であることから語り始めます。「わたしもそうです」と。そして「キリストに仕える者なのか」と言って、キリストの僕、キリストを伝える伝道者としての誇りを語ります。
 ふつうここで予想されるのは、伝道者としてどんな働きをし、どんな成果を上げたか、キリストに従ったらどんな良い事が起こったか、ということではないでしょうか。ところがパウロはそんなことを語りません。それどころか、キリストに仕えてきたためにどれほど大変な目に遭ったか、今もどれほど悩まされているかを語るのです。
 なぜこんなことが誇りになるのか? キリスト者になってこんな苦しい目に遭ったとか、信じても病気が治らなかったとか、かえって災難が降りかかってきたとか、教会のことでは毎日やっかいごとや心配事が迫ってくるのだと。こんなことを誇るなど、ふつうは考えもしないないでしょう。パウロが語ることはふつうは恥ずかしいことです。教会の外の人々からは、「そら見たことか。キリストを信じたからってろくなことがない」と言われそうなことばかりです。
 いつも何かに悩まされ、痛めつけられている自分。しかし、こんな私を生けるキリストが慰め、励まし、力を与え続けて、今まさに共に働いてくださっている。それがパウロの誇りなのです。それで、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇ろう」と言うのです。
 この誇りこそが、決して失われることなく、決して挫折もしない誇りなのです。それに対して、自分の強さや力に依る誇りは、必ず挫折し、必ず廃れます。偽使徒たちが誇る知識、力、経験、実績、自ら獲得した物、人からの評価。それらは必ず古び、いつか必ず失われる、危うく脆い誇りです。
 しかし、自分が衰え弱ったとても、むしろそこで、滅び行く者のために命を捨ててくださったキリストが命となっている真実が、内に確かにされ、外に証しされます。弱さの中でこそ確かに味わっていく、キリストの恵みを知っている。これ以上確かな誇りが、どこにあるでしょうか。この私のために十字架につけられ、今生きておられる主こそ、決して廃れない私の誇りです。