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要塞をも破壊する力

説教要旨(9月19日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:1-6
牧師 藤盛勇紀

 今日のパウロの言葉は挑戦的で皮肉に満ちているように聞こえます。敵対者たちが酷い言葉でパウロを誹謗しているのですが、パウロがどうしても聞き流すことができなかったのは、「肉に従って歩んでいる」という中傷でした。「肉に従う」とは、霊なる神なしに生きることです。神無し・神抜き・神要らずで生きている、と言われているようなものです。
 「わたしたちは肉において歩んでいます」とあるように、キリスト者も体をもって生きていますから、古い自分の魂・精神が体に染みついています。その「肉」が今でもうずき、力を振るおうとする。それで誰もが内側の戦いを抱えていますし、教会の内部にも戦いがあります。極めて困難でやっかいな戦いですが、「肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力」で、それは「要塞をも破壊する」というのです。そんな力によって破壊されたらいったいどうなるか? 結局、「キリストに従わせ」ることになるのだと語っています。
 「勇敢に立ち向かう」と言うパウロは、「キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」という態度です。「キリストの優しさと心の広さ」と聞いて思い起こすのは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)というイエス様の言葉です。実はパウロはここで「柔和」と「謙遜」という言葉を使っているのです。
 なぜ、キリストの柔和が勇敢な力になり、「要塞をも破壊する」のでしょうか。「要塞」は攻撃に耐える拠り所です。最後の砦、拠り所、生きる基盤、積み上げ築き上げてきたもの、「これさえあれば」と思えるものでしょう。ここでは「理屈」「神の知識に逆らう高慢」「あらゆる(人の)思惑」とあります。それらはふつう強さになります。弱気でうかうかしてたら追い落とされる。できれば少しでも強気でありたい。しかしそれは、恐れから生まれる強気です。中でもやっかいなのは「臆病」です。自分の内に、特に「弱さ」に凝り固まって、非常に強硬に頑なになります。【臆病】による【要塞化】。「神に由来する力」はそれを撃破します。
 主がお与えくださる休み・安らぎは、軛でイエス様と結ばれ、共に歩みながら学ぶことです。山上の説教では「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と言われたように、「柔和」はこの地に生きる時に重要な在り方です。単に怒りっぽくないということではなく、主と結ばれて歩調を合わせていただいて、主に対して自分を明け渡している状態です。自分の考えや思いが尖ってしまったり、前のめりにならず、人間の知恵や力は最終的な砦ではないと、神の前に認めていることです。「神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこに」して主と共に歩んで行く。だから嬉しく、常に喜んでいる。そして、何があっても命綱を握っている、いや握られているので、人からの批判や悪口によって傷ついたとしても、それで自分が失われることは決してありません。
 「私は傷つけられた」と思い込んで自分の内に要塞を築けば、「臆病の霊」(2テモテ1:7)に居場所を与えてしまいます。しかし主の霊は「力と愛と思慮分別の霊」です。主の霊に従う従順・服従は、一見弱く見えるかもしれませんが、実は力と慰めに満ちた、強い生き方です。パウロは常に内外からの耐えがたい攻撃に晒され続けました。しかし「私は傷ついた」などと言いません。むしろ「キリストの優しさと、心の広さとをもって、あなたがたに願います(勧め、慰める)」と言うのです。私たちが聞くべきは、人の言葉ではなく、憐れみと慈しみと力に満ちた、主の御言葉なのです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。