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日々新たにされて

説教要旨(4月25日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 4:16-18
牧師 藤盛勇紀

 今日のみ言葉は、格言のようにも聞こえます。聖書を知らない人でも分かる気がするでしょう。「確かに肉体は衰える。しかし内面・精神面は経験や学びによって鍛えられたり浄化される。内面が新たにされるとは本当だ」と。しかし、そういうことではありません。むしろ人生や歴史を真剣に見つめる人は、旧約のコヘレトが言う「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(1:8)という言葉に同意するでしょう。コヘレトは「新しいものはない」と看破しました。しかし、聖書は一方で「真に新しい」ことがあると告げています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(5:17)。キリストに結ばれた人は、誰でも《新しく創造された》者です。
 これも案外勘違いされやすい言葉です。「洗礼を受けてキリスト者となって、思いも新たに生きる」といったことではなく、キリストにおいて、まさに《新しい人》が《創造された》のです。神が無から有を生み出した創造以来の《新しい創造》が行われたのです。この世界はキリストを中心として新・旧二分され、人間も「アダム以来の人間」と「キリストにある新人類」に二分されました。だからキリストは「最後のアダム」と呼ばれ、「第二の人」と呼ばれるのです(Iコリント15章)。
 第一のものが倒れ、第二のものに神の祝福と救いが受け継がれる。これは聖書全体を貫くモチーフです。アブラハムからイスラエルへ受け継がれていく祝福は典型です。イエス様も、「先の者が後になり、後の者が先になる」と言われました。また、最初に天地万物が創造され、最後は新天新地で完成されます。この世界と歴史において「新しいもの」はキリストのみです。だからキリストに結ばれた者も新しい存在です。
 ここで言う「内なる人」「外なる人」とは、肉体と精神などということではなく、「新しさ」も、新たな思いだとか新しい心だとか、そんな常識的な話とは違うのです。
 パウロは「《だから》、わたしたちは落胆しません」と言います。落胆しないのには根拠があるのです。それは直前の言葉 (8~14節)に明らかです。「イエスの命が、この体に現れるため」「死ぬはずのこの身に、イエスの命が現れるため」と繰り返されているように、「内なる人」とは新しい人、まさにイエス。主イエスの命とその愛と恵みが、この衰えて死ぬべき私に現される。イエスは本当に生きておられると分かる。「だ・か・ら」です。
 「外なる人」とは肉体だけでなく、この世で獲得したもの全てです。能力・学識・経験・名誉・財産、そうしたものはパウロは豊かに備えていました。しかし自分にとって有利だったそれらのものは、キリストに結ばれたら「塵あくた」だと言いました。
 なのに、案外私たちは塵あくたの一欠片も失いたくないのではないでしょうか。それは滅ぶべき「外なる人」。見えるもので永遠なるものはありません。永遠であるがゆえに確かなものは、目に見えないものです。信仰も希望も愛も、キリストによって救われ生かされていることも、信頼も平安も、真にリアルなことは目に見えないのです。
 コロサイ書でパウロはこう言います。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」。洗礼を受けた人はキリストと共にすでに死んだ人です。そして、ただキリストの内に命を持っています。
 辛い経験や悩みは絶えません。しかし、そうした経験に絡め取られて自己憐憫に陥るのでなく、「外なる人」は衰えいずれ死ぬ者だけれども、キリストにある私は新しく造られ、主の命を生きる者だから滅びることはない。この事実を日々確かめ行きましょう。「信仰とは、見えない事実を確認すること」だと聖書は言います。キリストにある人は、誰でも「新しい人」なのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。