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溢れ出て、なお潤う

説教要旨(8月15日朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 8:7-15
牧師 藤盛勇紀

 エルサレム教会を支援するための献金運動に、コリントの信徒たちはいち早く応えたのですが、成果が上がないうちに頓挫しました。そこでパウロはもう一度やろうと勧ます。ただお金が集まればよいではない。献金は何のためかと言えば、《共に神の恵みに与る》ためです。共に苦難を担い合う献金も、共に貧しくなるためではなく、《共に豊かになる》ためです。もし、「命令だから」としぶしぶ献げたら、自分のものが減ったと感じられ、「パウロが言うから仕方ない」と否定的な思いも生まれ、「不純な思いで献げた」後ろめたさも残るでしょう。だから、この働きが「何から出たのか」を、再確認する必要があったのです。
 パウロは「愛の純粋さを確かめ」つつと言います。「愛の純粋さ」は何で分かるのでしょうか? 数や量では計れません。では「純粋な思いから始めたか」でしょうか?しかし、「報いを期待したんじゃない。あなたのためと思って」というのが、いかに危ういかは誰もが知っています。
 訳し出されていませんが、パウロは「なぜなら」と言って、「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知ってい(るからだ)」と言います。愛の純粋さをここで確かめながら言うのだと。愛の純粋さとは「キリストの恵み」を知ったことから生まれ、その恵みによって生きていることです。
 この恵みが何だったかを改めて簡潔に語ります。「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」。ここでは経済的支援の問題が扱われているので、「主が私たちのために貧しくなられたのだから、私たちも他の人のために貧しくなるべきだ」といった教訓に聞こえるかもしれません。「共に貧しさを分かち合おう」と。しかし、「主が貧しくなられた」とは《豊かな人が貧しい人に施した》といった一般的な話ではありません。フィリピ2章の「キリスト賛歌」と呼ばれる言葉があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。キリストが【貧しくなられた】とはこのことです。つまり私たちが【(罪から)救われた】こと。神を知らない生、神無しに生きて死ぬ命から解放され、神の命に与った。そのために神ご自身が罪とその結果としての死と滅びを負ってしまわれた。この神の愛と憐れみと恵みの御業です。それは、私たちが「豊かになるため」なのです。
 私たちは貧しかったのです。神に敵対し、何のために生きているのか分からないまま疑い、迷い、つぶやき、常に不安で、常に自分で自分を守ろうとし、自分を少しでも高めることに必死。それでどんな人生を作っているかというと、せいぜい財産を築くこと、良い地位を得ること、人に認められること。まさに世の奴隷。蓄えて、蓄えて、蓄えて、全て失う。何という貧しさでしょうか。
 しかしキリストは私たちを豊かにしてくださいます。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と主が言われた通りです。神に背反した無に等しい者を神の子・神の相続人としてくださいました。
 この恵みと愛を知っているなら、マケドニアの諸教会の人たちがそうだったように、自分が何も持っていないとしても、神の内にある可能性に向かって自分を献げるのではないでしょうか。神には備えがあります。私を生かそう用いようとなさる憐れみに満ちた御心があります。だから、自分を神のものとしてお献げしたい!主よ用いてください! 「愛の純粋さ」はそこです。何をしたか、何を持っているかではなく、純粋な思いかどうかでもなく、キリストが何をしてくださるか》で生きること、神の子として豊かに、幸いに、潤されて生きることです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。