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恵みによって贖われ

説教要旨(5月9日 朝礼拝より)
イザヤ書 1:21-31
牧師 加藤英徳

 預言者イザヤが活躍した当時、南王国ユダは混乱状態でした。国内は支配者層の堕落と腐敗がまかり通り、国外は迫りくる大国の驚異に決断を迫られる状態でした。明るい未来を思い描くことが出来ず、人々の「明日はどっちだ」と彷徨う姿が思い浮かびます。そんな答えの見つからない混乱の中で不安な生活を送っているのは何も彼らだけではありません。私たちも彼らと同様の混乱と不安の中にいます。そしてだからこそこの状況から抜け出そうと考えもがくのです。「この状況を何とかしたい」という思いから「行動を起こす」のは当たり前かもしれません。
 ですが、そうやって行動を起こしたその先に望んでいた状況が必ず得られるのかと問われるならそれははっきり言って疑問です。何とかしなければならなかった南ユダ国は人々の思いとは反対の状況に直面していましたし、その後彼らの国はその願いもむなしくバビロニアに捕囚されてしまいます。「この状況を何とかしたい」という思いから「行動を起こ」したその先に待っていたのは、自分たちの努力が無残に打ち砕かれた虚しさと、自分たちの努力ばかりに思いが向いていた結果、大きく離れてしまった神様との距離でした。
 この状況を何とかしたいと願い行動したもののその努力は報われなかった。その時ふと我に返ってみると、大元にあるべき方ではない物に思いを寄せていたことを知らされ虚しさに取り込まれる。その姿はまるでイエス様が御語りになった「汚れた霊が戻って来た家」そのものです。
 二人の主人に仕えることは出来ないように、「自分の思いだけ」に気持ちが向けられている時、神様と向合う事は出来ません。だから神様から思いが離れてしまうのです。そんな私たちの姿を与えられた御言葉は価値のある銀がただの鉄くずに変わったと、また良い葡萄酒が薄められ劣った状態になってしまったようだといいます。ところで、鉄くずは自らの意思で化学変化を起こして銀に精錬される等はありません。薄められた葡萄酒も自らの思いでの濃度を濃くし良い葡萄酒になる事は出来ません。ふりかえって先程の御言葉で鉄くずや薄められた葡萄酒と言われている私たちもそうです。
 だからこそその姿は「災い」だと言うのです。そして、御自分に逆らうものを罰すると言われるのです。ところで「神様が罰する」という御言葉を聞くとき私たちには理解できない特別な出来事にばかり目が向いてしまうものですが、神の罰が指し示している中心はそこではありません。「神の罰」が私たちに示すのはそのような目に見える出来事を元にしながら、創られた私たちが神様とどのように向き合っているのかを振り返ることです。「悪い奴だから懲らしてやれ」ではなく、私たちがどれほど神様と向き合っていないのかが明らかにされ、そこから私たちが神様の方へ向き直るようにという神様の私たちへの思いが示されているのです。
 神様は私たちが御自分のもとに戻ってくるように様々に働きかけてくださいます。けれども鉄くずであり薄められた葡萄酒である私たちは自分の努力で神様と向き直ることは出来ません。その事実は天国へと通じる一本の糸が切れて地獄へと真っ逆さまに落ちていくような絶望です。
 そんな私たちのところにイエス様が来られたのは、御自分の前に価値のなくなってしまったこの私たちを御自分のもとに取り戻そうとされる神様の御姿をお告げになる為です。だからこそイエス様は繰り返し神様と向合うようにと私たちに御語りになりあの十字架に向かわれたのです。そうやって自らでは神様の前に価値あるものになれない、そんなどうすることも出来ない私たちを前にあの十字架にお架かりになった姿をお示しになることで私たちの中にある神様に対しての不純なものを取り去ってくださるのです。そうやって価値のなくなった私たちを神様の前に価値ある状態へと変えてくださるのです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。