ホーム | 説教 | 説教(2021年度) | 見よ、生きている

見よ、生きている

説教要旨(6月20日朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 6:3-13
牧師 藤盛勇紀

 パウロは「神に仕える者」としての誇りを口にします。「その実を示している」とは「自分を推薦する」という言葉です。これまでパウロが繰り返し否定した自己推薦。なのにここではあえて自分を推薦する。もちろん、わけがあります。これまで何度か言及しましたが、福音に反する教師たちの問題があったからです。彼らは自分を誇ることができ、人の推薦を受け自己推薦さえできました。そこでパウロはやむを得ず自分を誇って見せたのです。「あらゆる場合」とあるのは全てパウロ自身の体験、苦難の連続です。自分を知って欲しくて語るのではありません。すでにパウロは、艱難苦難の中で実際に弱り果て、希望さえ失ったことも語りました。そうしたことを聞けば、敵対者たちからすれば「そらみたことか」という事態です。「神がお前に何をしてくれたのか。神の助けは無かったではないか。人の病気を癒やしたが、自分の病気も癒やせなかった。しかも何度も祈ったのに」と。
 なのに、苦しみや弱さの経験を語ります。それは、パウロはまさに自分ではどうしようもないその弱さの中で、豊かに恵まれたからです。生きておられるイエスご自身が恵みそのものだったからです。祈っても祈っても病気が治らなかった。その中で、主ご自身がパウロを慰め、励まし、豊かに用いておられたからです。苦難が去って恵みが来たのではない。病気が癒されたから恵まれたのではない。どうにもならない弱さ、治らない病の中で慰められていたのです。「慰められる」とは、「傍らで語られる」ことです。主が常にパウロと共にいて、主の霊が共に呻き、取りなし、慰め、励ましておられたので、パウロは主のお声を聞いたわけです(12章)。「私の恵みはあなたに十分だ。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と。それでパウロは言ったのです。私は、弱いときにこそ!強い!
 私たちは神の恵みをあまりにも限定的に考えていないでしょうか。主がおられることでは足りないかのように、他のものを頼りにし、御言葉さえ頭の中でこねくり回す。しかし聖書は言います。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。「主はあなたの近くにいる」。なのに、「苦難が去らなければ」恵みを味わえない。「病気が治ったら」「生活が順調になれば」と《たられば》の恵み。自分勝手にちっぽけでケチなものにしてしまう。
 しかし神の恵みは、「病にもかかわらず」「こんな弱さを思い知らされている、にもかかわらず」です。極めつけは「こんな私であるにもかかわらず」、神は御子イエスの血によって、命を注ぎ出して私を赦し、私をご自分のものとしてくださった」。だからパウロは言ったのです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(1)。そして「(見よ!)今や、恵みの時、(見よ!)今こそ、救いの日」と。
 パウロは自分が味わった苦難や忍耐のことと、その中でどう生きたかを語りますが、それらはパウロだから取り得た態度ではなく、神から与えられたもの、神にしていただいたこと、受けたことなのです。もし、そうしたものと自分が無関係のように思われるとしたら、それはあなたに力が無いからではなく、自分が弱いことに頑なに留まり閉じこもって、すぐ近くに、あなたの内におられる主に信頼しないからです。「あなたがたは自分で心を狭くしています(=自分の心の中で狭くなっている)」。パウロは「開かれよ」と言います。自分ばかり見るのをやめ、主に向かって自分を開くのです。
 8節以下では、キリスト者の生活は、「一見こう見えるが、実はこうなのだ」と、逆説的な真実があると言っています。私たちが神の恵みを見かけで決めつけるからでしょう。実はそうではない! 見よ! にもかかわらず生きている!と、主とその恵みの真実を映し出すのです。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。