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主の証人となる

説教要旨(5月23日ペンテコステ礼拝より)
使徒言行録 1:3-11
牧師 藤盛勇紀

 復活された主は弟子たちに言われます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。イエス様が逮捕されたあの最後の晩餐の夜、弟子たちに詳しく語られた「聖霊」のことです。霊なる神ご自身である聖霊は、イエス様のお言葉をことごとく思い起こさせ悟らせてくださる方であり、永遠にあなたがたと一緒なのだと主は言われました。「待ちなさい」というのは、聖霊が内に住んで下さっている者として、あなたが実際に力を得て祝福された者として生きるために、聖霊が外からも満ちてくださることです。
 イエス様は天に上げられますが、弟子たちは地上に取り残されます。主の口から直接教えを聞くこともなくなり、楽しい食卓を囲むこともなく、体で触れる交わりがこの地上ではなくなります。弟子たちはこれからどうすればよいのか戸惑い、不安になったでしょう。しかも彼らは「地の果てに至るまで」主の証人となって伝道に行くのです。ついこの間主を裏切った彼らに、そんな力も資格もないことは、彼ら自身よく分かっています。そんな彼らに、主は約束されます。あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける、そして地の果てに至るまで私の証人となるのだと。
 それはいったいいつなのか、その時について主は何もおっしゃいません。弟子たちは時期について尋ねますが、主は「あなたがたの知るところではない」と言われます。時を定めておられるのは父なる神です。決定的な時は、父なる神がお定めになり、その御旨は必ず成ります。神が決定され、神ご自身が必ず全て実行されます。だから信頼して、希望をもって行けばよいのです。問題は「いつか」ではなく、「誰が」です。
 神が定めておられることは、あなた方には聖霊が降り、あなた方は力を受ける、そして地の果てに至るまで主の証人となることです。そうなれたらよいとか、そうなれというのではありません。聖霊を受けたなら力を受け、主の証人とされているのです。
 イエス様は必要なことはすでに成し遂げ、必要なことも全て語って、今天に上げられます。使徒言行録を記したルカは、地上に残された弟子の方に関心を向けます。彼らにとって、復活の主と出会ったことはどれほど大きな喜びだったでしょうか。最初は戸惑いました。主を裏切った彼らは、まともに主と目を合わせることもできなかったでしょう。しかし、彼らの取り返しの付かない罪も傷も、主ご自身によって癒やされました。彼らは改めて、今度こそ、本当にこの方に従って行こうと思ったでしょう。
 ところが、主は弟子たちを残して天に上ってしまい、お姿は見えなくなりました。彼らは呆然と天を見つめています。しかし、それではダメなのです。二人の御使いが現れて言います。「なぜ天を見上げて立っているのか」。天を見上げて突っ立っている場合じゃない、自分たちの足元をしっかり見るんだ、あなた方はこの地上でなすべき使命を与えられたのだから。今からは、自分たちの目で見、自分たちの足で進み、自分たちの言葉で語って福音を伝えて行く。聖霊が注がれて、主が共にいて働かれるのだから、地の果てに至るまで行くのだ。
 「地の果て」とはどこでしょうか。海外に出て行くとか、遠くの地に飛んで行って伝道するということではありません。あなたがどこに行こうと、行く先々の全てが「地の果て」です。あなたが生かされている所の全てが、主が共におられる所だからです。だから主は、今日も「行け」と言われます。「行って、全ての民を私の弟子にしなさい」そして「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と。主が実際に私たちと共に生きていてくださるので、私たちは確かに主の証人なのです。なんと心強いことでしょうか。なんと光栄なこと、力あること、幸いなことでしょうか。

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。