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光の中を歩む時

説教要旨(7月11日朝礼拝より)
イザヤ書 2:1-5
牧師 加藤英徳

 「世の終わり」という単語を通して私たちが連想するのは地獄絵図のような有様かもしれません。ところが「終わりの日」を告げるイザヤの幻はそれとは異なります。
 イザヤは、その時どの山よりも高くそびえる主の山を人々が目にし、全ての人が大河の流れのようにその山を目指すというのです。
 それだけではありません。国々を神様が裁かれ、私たちは戒めの言葉を耳にするのです。そして争いの道具だった剣や槍は、実りを収穫する鋤や鎌に作り変えられるというのです。
 振返ってこの幻が示された時、イスラエルの人々は隣国の脅威にさらされた状態にありました。剣や槍の脅威の前に彼らはいたのです。そんな彼らに告げられたイザヤの見た幻の様子は、神様からの救いの宣言のメッセージとして受け止められたことでしょう。イザヤの幻を通して告げられる世の終わりは、私たちが連想するような予測不能な恐怖の出来事ではありません。神様が与えてくださる平安の時です。そして、それは私たちにも希望の幻となります。
 ですが、その希望の幻に私たちが向かっているかと問われるなら答えは「否」となるのではないでしょうか。大きな争いを経験し、その悲惨さを経験したのに、その後も争いは繰り返されています。
 人種・主義・性別・経済・思想・信条等を元に対立は深まっています。それらは他人が争っているのではありません。この私もそうしているのです。
 なぜなのでしょう。
 それは私たちがいつも自分を絶対と考え、その思いを周りに無理やり押し付けているからです。
 与えられた御言葉は終わりの日を迎えた私たちに「主の山に登ろう」と告げますが、自らを絶対と捉える私たちは、自分の山しか見ていません。そして苦労して登ったそこから周りを見下ろすのです。そんな姿を聖書は「罪」と言います。
 この「罪」の状態は、先ほど振り返った私たちの様子からも明らかですが、自分の努力や意思で抜け出すことは出来ません。
 もっと言うならその罪の状態を前に、私たちは自分からそこに入り込もうとすらしています。神様との関係からそうやって逃げようとする私たちの姿はそれらに押しつぶされるのを待つだけです。
 ところが私たちがそのように「罪」に押しつぶされないようにと、神様は、イエス様を送ってくださったのです。その方を通して私たちは神様の方へ引き上げられ、救われるのです。
 ところで、示された幻においてイザヤは私たちが主の神殿の山を見ると言っています。
 思い出せば、イエス様が向かわれたあの十字架は平地でなく、丘の上に立てられました。そしてその周りに人々は集まり十字架を見上げたのです。
 だとするなら、イエス様のお架かりになったあの十字架こそイザヤの告げる幻の主の神殿の山が山の頭として私たちの前にその姿を現したのかもしれません。
 つまり、私たちはあのイエス様の十字架を通してイザヤの告げる終わりの日を既に知らされているのです。既に私たちは終わりの日を迎えその場所へ集められているのです。
 そして私たちはイエス様の十字架を通してどの峰よりも高くそびえる山を登り神様の山を登るのです。その場所に向かう時、何も恐れる事はありません。なぜなら私たちがその場所に向かうように示される時、私たちは自らの力でその高い山を登るのではないからです。
 先導されるイエス様が私たちの手を取って、主の山へと導いてくださるのです。
 

誇る者は主を誇れ

説教要旨(10月3日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙二 10:12-18
牧師 藤盛勇紀

 パウロの伝道によって礎が築かれたコリント教会の様々な問題の背後には、偽教師たちの存在がありました。そうした教師たちについてパウロはこう言います。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」。それに対して「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇る」と言います。
 ここでまた「誇り」のことが取り上げられますが、「限度を超えては誇らず」「他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません」と、繰り返し「限度を超えない」と言います。「限度を超えては誇らない」とは、どういうことでしょうか?人の目や評価を気にして限度を弁えるということなのか。誇るにしても人の気分を害さない程度にしておくということなのか。そうではありません。人からどう思われ、どう評価されるかで限度を測るわけではありません。ではどんな限度なのか?
 パウロはここで「限度」「範囲内」「あなた方を越えた所」「他の人の領域(尺度)」といった言葉を繰り返します。《限度を弁える》ことが重要なテーマになっています。「誇る」こととの関係で、どんな限度や尺度があるのでしょうか。もし、ひと言で言うとすれば、《いつでも自分を主との関係で見ている》ことだと言ってよいでしょう。
 パウロは敵対者たちのことを「自己推薦」する人々だと言います。私にはこういう能力があり、こういう知識や経験がある。それについては他者からの評価もある。実際「推薦状」も持っている。だから私にはこういう可能性がある。そのように、自分の「売り」はこれだ、というものを持っていて、第三者からの客観的な高評価も付けられている人です。そうしたものを持っていること自体悪いことではありませんが、それを「売り」に生きるならば、常に他者からの評価を必要とします。自分を売り、人に買ってもらわないと先に進めない、生きられないのです。
 それに対してパウロは、人からの評価で自分の価値を確かめるような生き方をキリストの下で完全に捨てました。それまでは有利だと思っていたものの全ては、「糞土」だと分かり、「塵芥と見なす」と言いました。だから「評価し合い、比較し合う」というのは「愚かなこと」だというのです。
 自分が何者でありどんな価値があるのか、そしてどんな可能性があるのか、実際自分は何をなしてきたのか。そこには、人と比べながらの評価など一切入り込む余地はないのです。なぜならパウロは、キリストに捕らえられてから、自分の一切が神に買い取られて主のものとされていることを知ったからです。《主のものである私》こそが真実な私。《他人の目に写る私》とか《他者の評価の中にある私》は、実は私ではない。
 以前にも「推薦状」のことが取り上げられていましたが、そこでパウロは「あなた方が私の推薦状」だと言いました。パウロの働きや実績は、人からの評価など無くても、あなた方の存在が証ししている、あなた方がキリストに捕らえられ、神の命を与えられ、恵みによって生きる者とされたではないか。私の主が私を用いて働いてくださっていることの証しだと。だから、「誇る者は主を誇れ」と言うのです。
 あなたの造り主にして命の付与者であられる《あなたの主》を誇りとして生きるのでなければ、いつか失われる自分の何かを誇るか、人の評価や推薦状や成績表を誇って、それを売りに生きるしかありません。それは愚かなこと、空しいことではないか。私たちを贖い取って、生かし用いておられる主を見よ、このお方を誇ることこそ真に誇りを持って生きることだと言うのです。