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霊で祈り、理性で祈る

説教要旨(4月2日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 14:12-19
牧師  藤盛勇紀

 また「異言と預言」の話です。すでに3-4節で「人を造り上げ、励まし、慰めます」「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」とあり、結論は出ていると言えますし、「異言」の空しさも繰り返し語られています。
 そして、「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」と勧められます。ところが、「熱心に求めて」いながら、「教会を造り上げる」ことになっておらず、かえって教会が混乱させられていたのです。
 「霊的な賜物」は、聖霊が一人一人に分け与えてくださる賜物です。ところが、コリントの信徒たちは、各人の思いで、素晴らしいと思われ、人を惹き付けるような能力として「異言」を特別重んじて、求めていました。これこそ純粋なもの、神の力の現れだと。そこでパウロは、当然のことを勧めます。もし異言を語るのであれば、「それを解釈できるように祈りなさい」と。コリント教会では、異言を語る人は、自分で語ることを解釈できなかったのです。解釈されることなく、意味不明で何の役にも立たない言葉が、ただ空しく発せられている。しかも、それで熱狂している人たちがいて、熱心に、しかし深く勘違いしているという有り様でした。
 パウロは、「わたしが異言で祈る場合」と仮定して、異言と理性の関係についてこう言います。「それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」。ここで「霊で祈る」と言うのは、「異言で祈る」ことの言い換えです。その言葉は理性では理解不能です。ただ何となく神がかり的、神秘的で、本人は霊的な恍惚状態です。
 では、私たちが普段祈っている祈りはどうでしょうか。私たちの祈りは、神に向けて語る言葉、神との対話であり交わりです。私たちの普段の祈りは、全て「霊で祈る」ことなのです。これも当然です。神は霊ですから、霊なる神とのコミュニケーションは、霊によるしかありません。しかし、ここで「霊で祈る」とは、理解不能な異言の言葉です。
 それに対してパウロは「理性で祈る」と言います。これは、人間の理性の力によって神との交わりを持つということではありません。それは無理です。ここで「理性で祈る」とは、異言で祈るのとは違う、「理解できる」言葉であり、聞いている人に「分かる」祈りということす。これもまた当然の話です。
 異言で祈っても、人には理解できないことをしているので、「理性は実を結びまんせん」。異言の問題の一つは、「異言を語る者が自分を造り上げる」と皮肉って言われていたように、隣人への思いが欠如していることです。独りよがりで、13章で語られた「愛」とつながらないのです。だから14章の冒頭で、「愛を追い求めなさい」と言ったのでしょう。
 「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れる」とパウロは言いますが、「多く」と言っても、量的なことではありません。パウロが異言で語ったとしても、霊と理性をもって、必ず分かる言葉でも語ったのです。異言で語れるからといって、教会で人に向かって語るわけではありません。パウロが願っていることは、一人でも多くの人が救われることです。これは神ご自身の願いです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。であれば、解釈されない異言は教会では意味がありません。「わたしは他の人たちをも教えるために、異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」。キリストの恵みによるパウロの態度決定です。「一万」でなくてよいのです。「五つの言葉」でいいから、届いてほしい。そこに主の霊が働いてくださると信じるから、何度でも福音を語り続けるのです。