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憐みに胸を痛める神

説教要旨(8月13日 朝礼拝より)
ルカによる福音書 10:25-37
牧師  小宮一文

 「善きサマリア人のたとえ」と言われるたとえ話をイエスさまは語られました。ある旅人が道の途中で追いはぎに襲われ、瀕死になるほどの暴行を受けました。そこに一人の祭司が通りかかりましたが、その旅人を見ると道の向こう側を通って行ってしまいました。次にレビ人の人がまた旅人のところを通りかかりました。しかしその人もその旅人を見ると、そのまま通り過ぎて行ってしまいました。三番目にあるサマリア人の旅人がそこを通りかかり、サマリア人はその瀕死の旅人を見ると、憐れに思い、近寄ってその旅人を介抱しました。「永遠の命を受け継ぐにはどうすればいいか」と質問した律法の専門家に、このサマリア人のようにしなさい、とイエスさまは語られました。
 しかしこの話を「こういう人になれるようにがんばりましょう」「この人を見習って愛の心を鍛えていきましょう」「さあ、お互いもっと愛をもって愛し合おう」と捉えるのはどこか違うように思います。
 ルカがここで伝えたいことの中心は33節にあります。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」。
 この「憐れに思う」という言葉は、「内臓」から派生した言葉で、はらわたがちぎれるように痛む、ということを指します。そしてもっと重要なのは、この「憐れに思う」という言葉は聖書の中でイエスさまか父なる神さまにしか使われないということです。
 聖書はこの「憐れに思う」という言葉がイエスさまと父なる神さま以外に使われることをしりぞけています。そのことが伝えるのは「父なる神さまとイエスさまだけがほんとうに、あなたを憐れむことができて、はらわたがちぎれるように苦しむのだ」ということです。むしろ憐みがなく、隣人を線引きした上でなければ到底愛することなどできない、そうやって愛に欠けて、うずくまっているあなたがまず、この人に触れていただきなさい、介抱してもらいなさい、と言っているのです。
 憐れむとは「かわいそうで見ていられない」ということです。苦しむ姿を見ると自分のほうがつらくて耐えられない。父なる神さまは私たちに対してもそう思いました。自分から神を捨てたのに、結局は愛されることを求めて私たちが生きていくことに、神さまのほうが耐えられなかった。体が動いてしまった。だからイエスさまを送ったのです。
 「憐れに思う」という言葉が神さまにしか使われないということを私たちは心に留めるべきです。この憐みを、父なる神さまにではなく人に求めるときに、また罪も現れるのだと思います。人に憐みを期待するとどうなるのか。「あの人にはちっとも憐みがない!」。そういうことになるのです。「あの人は自分のことをちっとも憐れんでくれない!」。
 病院の待合室で看護師の人に怒鳴っている人を見たことがあります。「俺はいまこんなに苦しいんだ。お前にそれがわかるか。お前みたいなヘボな看護師にはどうせわからないだろうな。お前に看護師は向いていない。はやく辞めちまえ」。
 その人は人に憐みを期待して、そして甘えているのだと思いました。人に憐みを求めるならまず自分の親に憐みを求めるべきです。自分の親に平手打ちでも食らわせたらいい(家族に向けるのも間違っていますが)。しかしそれをせず赤の他人である病院の人に思いをぶつける。的外れも的外れです。そして罪とはそういうことです。
 「あなたが苦しんでいるのを、わたしは苦しくて見ていられない」という神は生きておられます。このお方にぶつけるように祈ることが信仰生活です。私たちがひとりで苦しみを背負うことこそ、父なる神さまとイエスさまにとって耐えられないことだからです。
 だからそんなことはしないでくれ、ひとりで抱えるのはやめてくれ、と言っているのです。