天の記録

説教要旨(9月17日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 10:17-24
牧師 星野江理香

 ガリラヤ伝道の後エルサレムでのご受難の道を進まれた主イエスは、切迫した状況の中、イスラエル各地への伝道のため72人の弟子たちを派遣されました。その伝道の旅から戻った弟子たちは、課せられていたこと以上に、主の御名によって悪霊をも屈服できたことを誇らしげに主に報告しています。
 ところが、主イエスは弟子たちの各地での伝道の様子を既に居ながらにしてご存じでした。そのように主イエス・キリストは、私たち全ての弟子を各々の伝道の場に遣わされますが、私たちが何処にいようと常に心にかけていてくだいます。また、「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」と語られたように、遣わされた者たちには必要なものが与えられ、護り支えられておりました。私たちのこの世での伝道の旅も、同じように常に主が護り導き、何処にいても見守っていてくださっていることを私たちは、このみ言葉から確信することができるのです。
 そこで主は「霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と仰いました。また御父が「これらのことを…幼子のような者にお示しにな」ったの「幼子のような者」とは<悪賢い人々の教えに誘われたり翻弄されたりする信仰の未熟な人々>のことで、全ての主の弟子たちを指して云われている言葉です。そこには、全世界の罪びとの救いを願って救いのご計画をたててくださった、神様の深い御憐みが示されているといえるでしょう。
 また主イエスが弟子たちに教えられた「名が天に書き記されていること」と申しますのは、旧約聖書やヨハネ黙示録等に示されている神様のお手元の「命の書」に名前があることを指しています。もっとも、それは、ただ私たちの名前が列記されているというものではありません。もっと全人格的に詳細に、私たちの人生の全記録…行いばかりでなく心のうちの思いまで…が、神様に憶えられているということです。そして当然それは、主イエス・キリストの十字架とご復活のみわざ無くして不可能なことでした。この世に生まれ落ちた時から死と滅びに向っていた私たちの罪が赦されて、御国の世継ぎとして神様の御手許の「命の書」に名前が記されるためには、主イエスが私たち人間の代表として十字架の上の死を遂げられ、同時にまことの神として勝利者となられた、その救いのみわざが必要でした。だからこそ、私たちは、自分の奉仕や仕事や能力や努力等を誇ることはできません。
 信仰を与えられ、洗礼を受け、主キリストに結ばれて、私たちの名前は神様の「命の書」に記され全てが憶えられています。ですから、この世にあっては名もなく誰に認められることなく生涯を終えるとしても、神様に忠実に、誠意を尽くして生きる私たちには、永遠なるまことの慰めが備えられているのです。
 ところで、主イエスは、他の福音書の中で施しを行う時は「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と勧めておいでになります。それ以外も善きことを行う時には、偽善者たちのように人前で行ってこの世の栄誉や人からの賞賛を貪るのではなく、隠れたところで私たちの善き行いを見ていてくださる神様に仕えるように、そうして、天に宝を積むように教えてくださいました。
 教会の中には、人前に立つ役目もありますが、人に知られずに行われる多くの奉仕があります。褒められることも人に評価されることもないけれど、礼拝のため、伝道のために必要な尊い奉仕を、ただ主のお喜びをだけ覚えて仕える主の弟子たちがいて、今朝も私たちは安心して礼拝をささげ、みことばに聴き入ることが叶えられています。
 そして、主を愛して誠を尽くしている一人ひとりを「命の書」に記して覚えていてくださる神様は、どんな勲章よりもノーベル賞よりも、この上なく素晴らしい御祝福を私たちのために備えてくださっているのです。