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死よ、お前に勝利はない

説教要旨(7月9日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 15:50-58
牧師  藤盛勇紀

 パウロはこの15章で、キリストの復活と私たちの復活の真理について語ってきました。結論を語るに当たって「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と言います。「血と肉」つまり血肉は、アダムと同じ創造されたままの自然の人間の体と人間性です。それは「朽ちるもの」「地に属する者」で、永遠の神の国を受け継ぐことはできません。
 「あなたがたに神秘を告げます」の「神秘」(ミュステーリオン)とは、キリストによって初めて明らかになった真理です。「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。
 私たちが根本的に変化させられることを、パウロは着物を着ることに例えています。第2コリント5章では、地上の体は「幕屋」「建物」「住みか」に例えられています。着物も住みかも全く新しくなっても、私たち自身の同一性・連続性は失われないということです。私たちは根本的に変えられますが、それでも私は失われるのでなく、《私は私》として、神が保ってくださっています。
 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。なたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(コロサイ3:3-4)。朽ちない体に復活させられる時も、私たちはキリストにあって復活し、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることに」なります。キリストという義の衣を着せられたように、全く新しい着物が与えられます。その期待をもって復活を待てばよいのです。
 今とは異なる状態に変えられるのは「たちまち、一瞬のうち」です。その時、神は私たち人間や世の何かを用いてなさるのはなく、神おひとりでなさるので、「一瞬」なのです。だから、終わりの時の復活のことは、ただ神にのみお委ねしていればよいのです。なのに、「死者はどんなふうに復活るのか、どんな体で来るのか」(35)と聞く人は、「愚かな人たち」だと言われるのです。
 パウロは言います。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです」。私たちの復活については、聖書が語っているのだと。パウロは旧約聖書の言葉を引用しますが、これは言わば、聖書全体が最終的に私たちに約束していることです。それは、終わりの時の私たちの復活において、私たちの救いが成就・完成するという信頼、信仰です。
 パウロは、イザヤ書とホセア書から引用しながら、歌っています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか!」。これは勝利の歌です。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。死のとげはもはや私たちにとって無力なのだ。罪は律法によって人を死に定めたが、その死の力はキリストによって引き受けられ、無力化された。もはや罪は私たちを突き刺す力は無い!
 神が、救いを成就してくださる。キリストが、勝利してくださっている。私たちはその勝利に与っている。だから私たちは、その主の勝利を誇って、歌うのです。
 私たちの死のことも救いのことも、すでにキリストがご自身の命を捨てて、全て措置してくださって、すでに解決済。勝利が決まっている。死は勝利にのみ込まれた!
 私たちはキリストにあって、誇らしく勝利を歌います。すでに打ち破られた「死」に対して、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか!」と、死を笑い飛ばすことができるのです。