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伝道の幻と戦い

説教要旨(7月16日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 16:1-9
牧師  藤盛勇紀

 最後の16章、パウロは「募金」のことと「伝道旅行」の話をします。まずエルサレム教会のための救援募金です。エルサレムは、三大祭りの度に世界中のユダヤ人が何十万人とやって来ます。エルサレムの住民は彼らの便宜を図りもてなします。そうしたこともあって、エルサレムは常に経済的に困窮していたようです。その中でキリスト者となった人々の事情は、さらに過酷でした。もともと社会的下層の人々が多く、持ち物を共有し合った様子は使徒言行録2:44-45から知られます。エルサレムのための募金については、パウロの主な手紙に出てきて、様々な言葉で表現されていますが、いずれも「献金」つまり「献身のしるし」なのです。
 お金にせよ物資にせよ、時や力にせよ、私たちが献げるのはなぜですか。万物は主のもの、私たちが持っているものは全て神からの贈り物です。それを神に献げるのは「お供え」ではありません。自分自身も含め、献げたものは主なる神が用いてくださいます。私たち自身が実際に生かされ、用いられる経験をします。それが喜びとなり、感謝となり、生ける主を誇ります。「献げる」のは単なる犠牲的行為でなく、生きておられる主と私の、生き生かされる関係なのです。
 もし、自分の持っているものは全部自分のものだと考えたら、どうなるでしょう。ルカ福音書12章のあの「愚かな金持ち」です。神は言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と主は言われました。
 「献げる」ことは「神の前に豊かに」なること。神の豊かさを身を以て味わうことです。福音を宣べ伝えることも同様です。だからパウロは9章で言ったのです。「…福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるため」だと。すでに福音の恵みに与っている者は、福音によって生かされ生きて行くのです。福音は、新しい考え方とか思想ではなく、それ自体が命です。新しい命、神の命に生き生かされていることです。福音はイエス・キリストご自身に他なりません。私たちはこの方と共に生き、この方が示してくださるところを目指して、共に福音に与る者となりながら、福音を伝えながら、歩み続けるのです。
 最初の教会エルサレムのキリスト者たちも、大迫害が起こると世界に散って行きましたが、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです(使徒8:4)。パウロがエルサレムのための募金を重んじたのは、「福音」という霊的な贈り物が、まずエルサレムからもたらされたからです。それで今度は、異邦人教会が肉的・物質的経済的な贈り物で応えることで、教会の一致・一体性を表しました。「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:27)。こうして霊的な真実が具体的に現されるのです。
 パウロは救援募金のための献金の仕方まで指示を与えてから、「マケドニア経由で」コリントを訪ねる計画を述べます。ただ、パウロはいろいろ考慮し苦慮しているようです。コリント教会とパウロとの複雑な関係が背景にあるからですが、コリントにしばらく滞在する計画です。「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」と言います。エフェソで伝道のチャンスが大きく開かれている、、その一方で、反対者もたくさんいるのだと。
 福音を宣べ伝えようとするところには必ず反対や抵抗が起こります。しかし、伝道は常に大きなチャンスなのです。主が働かれ、私が生かされ用いられるからです。募金にせよ伝道にせよ必ず困難があり、パウロもそうでしたが、計画通り行かないこともあります。しかしその伝道の幻と戦いの中で、主と共に生き、生かされる恵みを味わうのです。それは何と豊かなことでしょうか。