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天地を結ぶ

説教要旨(7月23日 朝礼拝より)
ヨハネによる福音書 1:43-51
牧師  星野江理香

 フィリポがメシア発見の吉報を伝えたにもかかわらず、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と拒絶しました。ナザレは、良くも悪くも旧約聖書に名前の出てこない無名の里だったからです。さすがアウグスティヌスが「律法の博士」と解釈したほど聖書を熟知していたナタナエルの返答です。
 そんな初対面のナタナエルを主イエスは、「まことのイスラエル」「この人には偽りがない」と好評価されます。それを訝しむナタナエルが、何故自分を知っているのかと尋ねますと、主は「あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とお答えになるのです。ですが、その場所は、肉眼では見えないくらい遠い場所にありました。しかも、ナタナエルが個室のように用いていたいちじくの木の下の空間は、イスラエルでは8m以上にも広がるという枝葉に隠れて容易に人から見えるはずもなかったのです。それにもかかわらず、主は、そこで独り聖書を読み祈りに専念するナタナエルをご存じだった上に、その内なる霊に語りかけられたので、ナタナエルは信仰を告白しないでいられなくなったのです。
 しかし、この奇蹟によって信仰を告白したナタナエルに主は仰います。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。…この主の言葉は一見、ナタナエルにだけの返答のように思えます。が、次節で二人称複数形に変化しているように、実は彼を含めた全ての人に対する予告であり宣言であるとわかるのです。
 奇蹟を知って信仰に入るあなた、またあなたたちが、もっと素晴らしい、もっと偉大なことを見ることができるようにしてあげると、主は約束されているのです。そして、そのもっと偉大なこととは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」ことであるというのです。それは、イスラエルの人々にはすぐ「創世記」第28章の…いわゆる「ヤコブの梯子」の物語を想起させるものでした。
 
 「創世記」のヤコブが見たのは、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びて」いて、御使いたちが「上ったり下ったりしてい」る夢でした。一方「ヨハネによる福音書」では、「ヤコブの梯子」ではなく「人の子」、すなわち主イエス・キリストの上に「神の天使たちが…昇り降りする」と語られています。
 実のところ、「先端が天まで達する階段」というのは、天と地とを結び、人間と神様の関係を結び合わせる御方の象徴なのです。もっともヤコブの時代には、そのみわざは未だ実現していなかったので、目覚めた若きヤコブの眼前には、ただ荒涼とした大地が広がるばかりだったのです。
 しかしながら、今それは既に現実となっています。神様のみ子が主イエス・キリストとして地に降り来たりてくださり、十字架とご復活のみわざによって、断絶していた天と地を結び、神様と人との間の和解を実現し、永遠に断絶することのない天への階段又梯子となってくださったからです。こんなにも素晴らしい、個々の小さな奇蹟よりはるかに偉大なことをあなたがたは見るようになる。いいえ、今既に私たちはそれを見て知っています。
 天と地との間を上り降りする御使いたちは、その動きそのものが主のご栄光の輝きを表わすものといわれます。であるならば、それは、洗礼により新しくされ、霊的には既に神様のみ国に軸足を置いて生かされ、同時にこの地上に片足を置いて生きる私たちキリスト者の姿にほかならないことでしょう。
 そして、この偉大なみわざが具現化され、目に見える形として地上に教会が建てられました。教会は、主イエス・キリストのみ体として天地を結び、主に委ねられた赦しの務めを負っています。何気ない日々を過ごしていても、私たちキリスト者は、天地を結ぶ御方の肢体として、また天地を行き来する御遣いとして、その務めに召されているのです。