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最も惨めな者

説教要旨(5月21日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 15:12-19
牧師  藤盛勇紀

 「ある者が、死者の復活などない、と言っている」。全てをひっくり返すような主張にパウロは驚いています。「死者の復活などない」という主張は、死者の復活の可能性があるかどうかといった議論ではありません。イエスが復活したとの証言を信じ得る合理的な理由も、言えなくはありませんが、超自然的な出来事が起こったという事実によっては、信仰は生まれません。《この私のために》キリストは十字架につき復活なさったのでなければ意味がありません。
 イエスの復活について、より正確に言うならば、《神が》イエスを復活させたのです。御子イエスが十字架で肉を裂かれ血を流し、確かに死なれた。それによって私たちの罪が赦された。それが確かなのだと、父なる神が、イエスを復活させて確証なさったのです。イエス・キリストの復活を信じることは、「死者の復活」という奇跡的な現象があったと信じることではありません。私の救いのために、イエスを復活させた神、今も生きて働いておられる神を信じることです。
 「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」。これも、死んだ人一般の話ではなく、復活の可能性という話でもありません。私たち自身も含めて、死んだ人が復活しないのだとしたら、つまり復活の必要がないなら、キリストが死者の中から復活する必要もなかっただろうということです。
 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:25)。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」 (ローマ14:9)。
 「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」。キリストを信じた者も復活せずに滅ぶとしたら、私たちの宣教自体無駄だし、ただ無駄だとか無意味だというだけでなく、使徒以来の信仰は嘘となり、私たちは嘘を宣べ伝えていることになります。
 神は、御子を世に送り、世の人の罪を赦すために十字架の死に渡し、犠牲の小羊として肉を裂き、血を流すままにされた。それによって私たちの罪が赦された。赦されただけでなく、イエスは罪の結果としての死を打ち破って、私たちを新しい命、神の命に生まれさせ、神の子としてくださった。それを、神がなさったと、私たちは信じています。
 イエスの復活が事実だったかどうか、などといった議論は全く無意味です。パウロもそんな議論にかかずらってはいません。「死者が復活しないのなら、…あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。問題は、あなたがたの信仰、あなた方の救いなのです。
 私たちは、復活されたキリストを信じて、このお方と一つとされて罪赦され、今や義とされ、神の子とされている。そう信じて宣べ伝えています。それを否定するなら、「今もなお罪の中」にあって、神と断絶したまま、罪と滅びに定められたままで生きるだけです。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。なんと空しいことでしょうか。
 しかし、復活の信仰は力があります。キリストの復活は、私たちの死そのものを破ってしまったからです。主は言われました。「わたしは復活であり、命である。…生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11章)。
 信じている私たちも、もともと「最も惨めな者」でした。神から離れ、行く先を知らないまま生きて、ただ滅び行く者でした。復活されたお方は。「信じるか」と問うておられます。主よ、あなたを信じます。