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イエスに従う者たち

説教要旨(11月5日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 4:18-21
牧師 小宮一文

 ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、この4人の漁師たちがイエス様から召される場面です。「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」。ヤコブとヨハネも「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従」います。大胆な決断です。なぜ即決で従って行けるのでしょうか。
 前回、すでにこまで踏み込んでお話をしたので重なりますが、彼らはもとは洗礼者ヨハネの弟子でした。師のヨハネがイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く、神の小羊だ」と言った時から、彼らは自らイエス様について行きました。実はその前に、彼らはイエス様によって奇跡を経験させられていて(ルカ5:1~11、前回参照)、自分はこの方の前に出る資格さえない罪人であることを思い知らされ、ただこの方を畏れました。
 ところが、そのイエス様から思いもしない言葉が発せられます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。イエス様の前で、「もう俺は消えてしまいたい」くらいに思って、「主よ、私から離れてください」と叫んだのです。主よ、あなたがこんな私に、「ついて来い」と言われるのですか。こんな私を、あなたはお召しになるのですか。
 こんなことは当時でも異例です。ラビが弟子を招くことなどありません。従いたい人は自分から「弟子にしてください」と弟子入りを願うのです。ところがイエス様は、田舎の無学な漁師、しかも傲慢な思いを抱く彼らを、自らお招きになりました。異例中の異例です。
 そんなことがあって、ペトロとアンデレの兄弟は「すぐに網を捨てて従った」。そして、ヤコブとヨハネも「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。「網を捨て」た。今までの生活の柱、収入の道が無くなることです。イエス様への全面的な信頼です。イエス様に従って行っても、さあその先、どんな生活が待っているのか分からない。生活の糧はどうやって得るのか。今でも、いわゆる献身をして伝道者になろうという人は、そこも問われるわけです。でもどうなるか分からない。私も、会社を辞めて神学校を受験した時、不思議に道が開かれた経験をしました。主は不信仰な者を招いてくださるだけでなく、御自分に従って来る者を、ますます主に信頼する者となるようにも導いてくださいます。
 ヤコブとヨハネは「舟と父親とを残してイエスに従った」。一騒動起こりそうな状況です。しかし主は、無理矢理従わせることはしません。主は、不安に思いながらでも御自分に従って来る者を、決して裏切ることはなさいません。ご自分に従う者を導き、訓練されます。主と一緒に、思いがけない経験をささて、恵みと慈しみを味わわせ、主が真実な方であり、全てを支配しておらられるお方であることを、深く確信させてくださいます。
 漁師たちを弟子にされたイエス様の活動が、23節以下に記されます。イエス様は「御国の福音」を宣べ伝え、数々の「いやし」の業をなし、悪霊に取りつかれた者を解放しておやりになる。これらの働きは、イエス様が聖書に預言された神の御国の王であられることを、証明する働きでした。
 「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」。「異邦人のガリラヤ」(4:15,16)と呼ばれ、「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」と呼ばれて蔑まれた人々。彼らにまさに「光が差し込んだ」。彼らは「大きな光を見」たのです。
 実に多くの人々がイエス様に従いました。しかし、主が十字架にかけられる前、彼らはみな去ってしまい、あるいは土壇場で主を裏切り、見捨てます。主はこんな不真実で不信仰な者どもを、「私に従いなさい」と召されるのです。召しに応える者は、主の憐れみ深さ、主の真実を味わいます。召された者にとっては、地上の生涯の終わりの死も、その主の真実を確かにする時です。「生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:26)。