あなた方に平安あれ
説教要旨(4月9日 イースター礼拝より)
ヨハネによる福音書 20:19-23
牧師 藤盛勇紀

十字架につけられて死んだイエスは復活し、今も生きておられる。私たちが知らせる福音の中核です。しかし、大抵の人はそんなことに関心はありません。復活と聞いても、直ちには信じられない。それも当然です。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方」。この2日前、イエス様の処刑が行われました。エルサレムではユダヤ人の最大の祭の過越祭が行われていました。イエス処刑の衝撃が、まだ町を覆っています。安息日が明けたこの日の朝、香料を持ってイエス様の墓に行った女性たちが、復活した主と出会います。この不思議な噂もエルサレムを駆け巡り、身を潜めていた弟子たちにも伝えられました。いったいどういうことか。
1週間前、イエス様と弟子たちがエルサレムに到着し、周辺の人々は歓喜の声を上げて迎えました。ところが、その僅か5日後、捕らえられて鞭打たれ、無残な姿を晒すイエスを見ながら、人々は叫びました。「イエスを十字架につけろ!」 この衝撃的な事件の余韻は冷めず、息を潜めていた弟子たちは恐怖と不安が募り、主を裏切ってしまった罪責感に苛まれていたでしょう。ユダヤ人にとっては、木にかけられた者は「呪われた者」です。イエス様は呪われた者だったというのか? もう何が何だか分からない。彼らは「家の戸に鍵をかけ」、完全に閉じこもっています。
ところが「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」というのです。「平安あれ」。ユダヤ人のふだんの挨拶《シャローム》。朝なら「おはよう」、夕べは「こんばんは」。《シャローム》。いつもと同じようにイエス様が現れ、かえって弟子たちは混乱したでしょう。
ただ、いつもと違うことがありました。主は「手とわき腹をお見せになった」。十字架に釘付けされた両手、槍で刺された脇腹、その傷は、完全に死んだ人の傷です。
《私は確かに十字架について死んだのだ。あなたたちの罪の償いは、完全に終わったのだ。あなたの神様に対する負い目、負債は、私の血、私の命で全て支払った。もう完全に済んだのだ》。十字架上での主のお言葉「成し遂げられた」(19:30は、「支払い完了」という言葉です。《もうあなたが恐れたり怯えたりしなければならない理由は、何も無くなった。あなたが神の前に立つ時、もう良心の咎めさえ感じる必要もない。神に近づくことを躊躇うこともない。一切ないんだよ》。だから、「平安あれ」。
弟子たちは、傷を持った主を見て喜んだのです。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5)。
《傷を見て喜ぶ》、ということがあるでしょうか? 私の娘たちは3人とも帝王切開で生まれました。母親のお腹の傷を見て「なんだろう?」と思います。「ママのお腹、でっかいバッテンになってる!」。子供たちは、この傷から生まれたのだと知りますが、母親の大きな傷跡を見て、「こっから産まれたんだ!」と、キャッキャと喜ぶんです。
イエス様の傷はどこで付けられた傷なのか。あなたを神のもの・神の子として贖い取るために、十字架で付けられた傷です。《私は自分の肉を裂き、血を流して、あなたを買い取った!》。主は重ねて言われました、「平安あれ」。そして「私もあなた方を遣わす」と。主は弟子たちに「息を吹きかけ」ました。神の命の息吹・命の霊です。主ご自身の霊を吹き込まれたのです。「聖霊を受けよ!」
主は最後の夜、弟子たちに聖霊を与える約束をなさいました。この方「聖霊」は永遠にあなたがたと一緒だよ、と言われたのです。主はその霊を私たちにも注いでくださって、永遠に主と一緒の者、主と一つとされた者としてくださいました。私はあなた方を遣わし、私が行く。あなたの命は私の命。あなたの人生は、私の命が現れる人生だと。私たちは、生きておられるキリストの証人なのです。