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最後のアダムは命の霊

説教要旨(7月2日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 15:35-49
牧師  藤盛勇紀

 「死者はどんなふうに復活するのか、…」と問う人を「愚かな人だ」と言います。激しい言葉です。なぜそこまで言うのか。「どんなふうに」とは誰もが疑問に思う。だから誰でも納得できる説明をしてくれと思うのです。神とか信仰とか、そんなことはいいから、と。
 しかし、パウロが命を賭けて伝えていることは、「神から恵みとして与えられたもの」(2:13)、神だけが与え得るものです。それは世には無かったもの、キリストによって初めて明らかにされた真理です。死と命の関連で言えば《新しい命》《新しい創造》です。2章で明らかにされたことですが、神の霊によって知るしかない、信仰の話なのです。
 ここで種や動物や天体の話をするのは、死者の復活はどんな体かという話ではありません。《あなたも種を蒔くだろう。種は土の中で朽ちるが、種がどうなるか心配する人はいない。芽が出て茎が伸び、花が咲き、実がなるではないか。どうしてそうなるか知らないのに、あなたが種を蒔くとき、希望をもって蒔くではないか》。そういう話です。
 イエスも言われました。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(マルコ4:26-28)。どうしてそうなるのか人は知らなくても、実を結ぶのを信じて、希望をもって種を蒔くのです。
 私たちの復活の体もそのような全く新しいものだというのです。動物や天体も、「神は御心のままに」「それぞれ体をお与えになる」。地上を生きるに相応しい体があるように、天において相応しい体を「神が」お与えになる。どんな体なのか、そんなことは知らない。大事なことは「神が」なさるということです。
 聖書が伝えるのは、キリストによって開かれた全く新しい現実、全く新しい命です。キリストに結ばれた者は「見えないものに目を注ぐ」者です。見えるものは過ぎ去り、見えないものは永遠だと知ったからです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(2コリント4:16)。私たちの「内なる人」は、私の内で新しい命の霊として生きておられるキリストです。肉体は衰えて行くが、内なるキリストは私を生きて、私をますます神のものとしてくださっている。そして、終わりの時には、私はキリストの似姿になり、キリストと共に栄光に与ります。
 生まれながらの人間はアダムと同じです。土の塵の体に、神は命の霊の息吹を注いて「生きる者」とされました(創世記2:7)。しかし、アダム以来の人間は神から離れ、《生きて死ぬ》者となりました。ところが、「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」。
 キリストは「最後のアダム」となって、《生きて死ぬ》運命の人間を、十字架の死もとろも終わりにしてしまわれました。そして、復活されたキリストは「第二の人」。この方に結ばれた者は「第二の人」として「天に属する者」とされました。この新しい現実を見ている者は、神の霊を注がれて、神の愛を知っています。神が愛してくさっている私とされている。だから、復活の体はどんな体なのかとか、死んだらどうなるのかなど、どうでもよい無駄な心配です。私たちの朽ちる体には、すでに神の霊が住んでくださっています。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。…わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」(2コリント4:2-11)。
 衰えて死ぬこの体さえ、イエスの命が現される。まして復活の体は。それがどんな体かなど問題ではない。誰でもキリストにあるならば新しく創造された者。復活の命はすでに私たちの内なる人の命となっているのです。