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神の恵みが現れた

説教要旨(5月7日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 15:1-1
牧師  藤盛勇紀

 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます…」。パウロが何度も告げ知らせ、繰り返し伝えたことは単純です。ここにも何度も出てくる「福音」です。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」。パウロは伝える者だけれども、自分も伝えられたのだと言います。
 パウロは1章で言いました。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」。神は人をお用いになります。宣教の愚かさは、人から人へという手段の愚かさでもあります。しかし、本当に愚かなのは、告げ知らせる内容そのものです。神の子、救い主が人の手にかかり十字架につけられ殺された、しかもその死が、全ての人の救いとなった。全く愚かな話です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にはとっては愚かなものです」(1:18)。
 パウロ自身、そんな馬鹿げた話で神を冒涜する連中の存在を許せず、神に対する自らの真実と誠実と熱意をもってキリスト者たちを全力で迫害しました。ところが、ある時突然、生きておられるイエスと出会ってしまいます。ただ、パウロはその自分自身の体験によって福音を知ったのではなく、「わたしも受けたもの」だと言います。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:11)。
 パウロ自身「最も大切なこととして」告げ知らされた福音の内容はキリストであり、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。イエスは確かに死なれ、そして確かに復活なさった、これは「聖書に書いてあるとおり」なのだと言います。聖書のどこというより、聖書全体に表されている神のご意志、ご計画の通りです。イエスの十字架の死は、人間の愚行でそんな事態になってしまったというのではなく、神の永遠のご計画が、決定的に現された出来事だったのです。
 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れた」。そして「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。神の救いのご計画は、最後にキリストが私にも現れてくださったことで、確かに現された。こうしてキリストの復活は、今もなお実際に力を発揮していると言うのです。
 「ケファ」(ペトロ)が最初に来るのは、事実とは違う。女性の証言が有効でなかったことと関係するとも言われます。しかし、神の憐れみは、イエスを誰よりも明確に否んでしまった、取り返しのつかない罪を犯した者にまず向けられたのでしょう。ペトロは、主を裏切った弱い者たち、裏切り者集団のいわば代表です。そして最後は、教会の迫害者パウロ。「最後」は単なる順序ではなく、月足らずで生まれた生まれ損ないの者、教会の迫害者の私より後の者などない、という自覚でしょう。まさに「罪人の頭」なのす。
 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:6-8)。
 神の愛と憐れみは、弱い不信心な者、罪人にこそ燃やされます。この「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。この神の恵みが、あらゆるところで宣べ伝えられ、いま私たち自身にも告げ知らされ、信じる者が今日も起こされている。このように、キリストの恵みは現に、現れているのです。