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熱意とバランス

説教要旨(4月30日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 14:33-40
牧師  藤盛勇紀

 「婦人たちは、教会では黙っていなさい」とパウロは言います。しかも、婦人たちが教会で発言するのは「恥ずべきこと」だと。礼拝・集会で女性がどのように振る舞うべきか。ここでの指示は、当時のコリント教会の混乱した状況が背景にあります。11章で言ったことと矛盾するようにも思われます。女性が預言をする場合、かぶり物をかぶるようにとの指示でした。かぶり物を付けていれば女性も預言したのです。それも、ギリシア的文化の中にあったコリント教会の問題という文脈で理解される必要がありました。
 12章以来のテーマは「霊の賜物」。それは様々なかたちで現されますが、多様性に紛れて世の諸霊の影響、熱狂主義、異教的な狂乱が礼拝に入り込んでいました。たとえば女預言者が髪を振り乱して叫ぶような光景です。それが「異言」だとすると悲惨です。「気が変だ」と言われる状況です(⇒23節)。そんな事態に対して、パウロは「神は無秩序の神ではなく、平和の神」だと言いました。それは単に形が整っているといったことではなく、私たちの神はどのようなお方かということから、礼拝での秩序を回復すべきことを教えたのです。その秩序は、イエス・キリストにご自身を現された神と、その救いの御業に私たちがお応えし、相応じるかたちに現されます。そこで私たち自身が、恵みの神に相応しい者とされていることです。
 コリント教会の礼拝の無秩序や混乱という事態を背景に、パウロは婦人たちが「教会の中で発言するのは恥ずべきこと」だと言ったのですが、コリント教会にはもっと恥ずべきことがありました。それは、「自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者」たちの存在です。パウロは非常に厳しく勧告します。ここで「霊の人であると思っている者」とは「異言」を語る者のことですが。彼らは霊の人だと勝手に思い込んでいます。
 パウロはそれを聖霊の賜物による本物の異言とは認めていないことが分かります。むしろパウロは、使徒の権威をもって、パウロの言葉に服従することを要求します。そして14章の始めに言ったことを改めて繰り返します。「こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい」。「異言を語ることを禁じてはなりません」と付け加えますが、本当の異言ならばです。それでも、異言を語ることについては、「求めなさい」とは勧めません。
 最後に「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」と勧めます。礼拝や集会に関することです。「秩序」は「順番・種類・型」なども意味する言葉で、教会で実際に行われる礼拝には、ある一定のかたち・プログラムが定められます。ただし、固定化された基準があるわけではないので、霊に導かれながら「適切に」ということに配慮するしかありません。これは「美しい」「麗しい」「格好がよい」という意味で、その反対語は13:5の「礼を失」すること(みっともないこと、見苦しいこと)ですので、最終的には、「愛は…礼を失せず」と言われる通り、《主の愛と霊に触れられた霊的・信仰的なセンス》で判断していくのです。それは常に「愛を追い求めなさい」(14:1)とセットで、神の愛に応じていることです。
 それはまさに、キリストに現された神の愛です。神の愛の中でこそ、私たち人間の不完全でアンバランスでみっともないものも、位置が与えられ、バランスが与えられます。私たちの不完全で見苦しい愛も、神の愛のもとでなら、言わば立つ瀬があるのです。
 人間の愛の見苦しさは、条件付ということでしょう。「…だから」の愛、「こうしてくれたら」「こうであれば」、たら・ればの愛。取りこぼしてしまう愛。しかし神の愛は違う。「にもかからわず」の愛、罪人のために命を捨ててしまう、底抜けに深い愛、あきれるほど高い、キリストに現された愛です。この方の下、十字架の主の下でなら、私もあなたも誰でも、立つ瀬があります。私たちの愛は不完全、どんな熱意も誠意も的外れですが、キリストの愛に拾われて位置を与えられ、方向付けられ、バランスが与えられるのです。