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イエス・キリストの誕生

説教要旨(8月27日 朝礼拝より)
マタイによる福音書 1:18-21
牧師  藤盛勇紀

 「イエス・キリストの誕生の次第」についてはルカ福音書の方がかなり詳しいのですが、マタイにはマタイの主張と特徴があります。マタイは、マリアが身ごもったのは「聖霊によって」だと言います。「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」と使徒信条で告白している通りです。マタイはいきなりチャレンジしているわけです。《あなたはこれを信じるか》と。
 1章前半の「イエス・キリストの系図」は、ユダヤ人にとっては異常です。ダビデ王家の血統もありますが、罪の汚れ、恥と嘆きに満ちています。しかし神は、この人間の歴史のただ中に救い主を生まれさせ、そこに神ご自身が乗り込んで来てしまれたのです。クリスマスに備える時期を「アドベント」と呼びます。「到来する」という意味で、英語のアドベンチャーにつながります。単に「来る」というより、「敢えてやって来る」こと、危険がある「にもかかわらず、来る」ことです。そこには神の決意があります。人間の罪の汚れと恥と醜さ、にもかかわらず、敢えてその血筋の中に、神は来てしまう。その決断が「聖霊によって宿った」現実に現されました。
 ヨセフは主の天使から告げられます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。「イエス」の名は、《主は救い》という意味。主なる神は私たち人間を罪から救うために、「聖霊によって」、人の子として生まれてしまったのです。
 しかもこのことは、昔から預言者たちを通して告げられていた、神は既に決意しておられたのだと。その決意は、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)。神は、このような我々人間と共にいる!そう決意しているお方です。神を神とも思わない頑なな人間などいらないとか、生かしておいてもよいが、厳しい裁きで罪の深さを味わってもらおう、などと言われない。そう言われても仕方のない私たちですが、それにもかかわらず、神は人の罪をご自身で全て負ってしまう。そのために、自ら人となってしまうのです。
 イエス様の父となったヨセフは「正しい人であった」。マリアの妊娠を知ったヨセフの苦悩はどれほどだったでしょうか。まさか、マリアが姦淫を犯したのか。人には言えない酷い事件に巻き込まれたのか。眠られぬ夜を何度過ごしたか。悩んだ末、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひろかに縁を切ろうと決心した」。これが、正しい人ヨセフの精一杯の決心でした。人間を罪は、正しい人間の正しさによってもどうにもなりません。到底人間の手には負えない。しかし、人間には絶望でも、神ご自身が、そこに乗り込んで来られた。聖霊によって、人として来られたのだと、マタイはチャレンジしているのです。
 ここではヨセフが大きなチャレンジを受けています。自分でもどうしてよいか分からない混乱の中で「こうしよう」と決意した。しかし彼は、その混乱の中で主の御使いの言葉を聞くのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。
 私たちもしばしば不信感や疑いを抱き、様々な思いに揺さぶられ翻弄されます。しかしそこで、《誰の言葉を聞くのか》《何によって判断し、生かされるのか》が問われているのでしょう。チャレンジを受けているのです。
 ヨセフは天使の言葉に聞き、マリアを迎え入れ、生まれた子にイエスと名付けます。彼の心中でどのような解決があったのか分かりません。ただ。彼の決意は独り決めではない、主なる神が私と共にいてくださって、私に語りかけ働きかけ、私を動かし、生かしておられる。その現実に自分を開いたのです。
 「眠りから覚め」たヨセフはが見ている現実は、何かが変わったわけではなく、困った状況も川良菜い。しかし、自分の思いも含めてある意味で全てが変わったのです。神が聖霊によって、この過酷な現実のただ中おられる! あえて、私たちのような者と「共にいる」と決意し、私たちを救っておられる! まさに、生まれてくる子は「イエス」なのだ!