秩序と平和の神
説教要旨(4月23日 朝礼拝より)
コリントの信徒への手紙一 14:26-33a
牧師 藤盛勇紀

コリント教会は霊的な賜物とくに「異言」によって混乱がありましたが、パウロが語ってきたことは単純で、皆が熱心になっている「異言」より「預言」の方が優っているということです。 (23節)「皆が異言を語っているとことへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」。せっかく新しい人が来ても、教会の人たちの話が理解不能、意味不明。しかかも教会の人はその状態に満足している。「気が変だ」と思うのは当然です。「気が変」とは「マニア」の語源。教会はいつでもマニアの集団と化します。内輪でしか通じないような言葉や慣習で交わりを固めているのも同じようなものです。
「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。…詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」。礼拝の持ち方です。「造り上げる」とは建てること。一人一人がその枝とされているキリストの体なる教会が、み言葉を中心に建て上げられることです。だから異言を語る場合「解釈する者がいなければ、教会では黙って」いなさいと。これも当たり前です。
「預言」する場合も基本的には異言の場合と同じです。パウロの指示は、礼拝が無秩序にならないために、とくに「教え、啓示を語」ることを中心とする礼拝を求めています。それは、「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」。神は混乱ではなく「秩序」を求めておられます。「秩序」と聞くと堅苦しいものをイメージしがちですが、神の「秩序」はどこに現されていますか? それは「啓示」です。神は私たちを愛し、神に背を向けて失われていた私たちを取り戻すために、この世においてなさった御業です。キリストの十字架の死と復活と昇天と聖霊降臨の出来事。そして、聖霊の御業は今も私たちに働き続けている。だから《啓示は神の愛》であって、啓示された神は、愛なのです。それを伝える言葉が「十字架の言葉」、神の言葉、預言です。だから、預言も愛から出ます(⇒14:1)。
主は言われました。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハネ4:23)。神が求めるものは、秩序正しく整えられた礼拝でも立派な献げものでもありません。そんなものを神は必要としません。神は「礼拝する者」を、つまり「礼拝するあなた」を求めておられるのです。
「秩序」も、愛である神が来ておられる事実から考えます。霊において神は私たちに来ておられ、私たちも霊によってお応えします。救いはどこからともなく降ってきたのではなく、道筋があり、神のなさりようがあり、順序、秩序がある。それを宣べ伝える言葉に触れ、聖霊の働きによって人は知るのです。《ああそうだったのか。神はそんな仕方で、この私にも恵みをくださっていたのか》。
だから、その恵みにお応えするのも相応しい仕方があるのです。神の恵みに私が応えるなら、私は相応しい者とされています。神の信実に触れられて、私も信仰の霊によって相応じる。そこで、私は初めて《相応しい私》にさせられているのです。
礼拝の形も、そのためにあります。賛美が歌われる時、霊によって私の祈りや感謝を乗せて行く。信仰告白をする時、私も「同じことを言う(告白)」。私の信仰を乗せ、その言葉に導かれて行く。説教を聞く時、聖霊が働かれ、神の恵みと真理が私の魂に証しされ、私が受け入れられ、私もその恵みを証ししたいと願う。献金の時、私自身を主に献げ、私を用いていただく。
そのように、礼拝全体が私たち自身の信仰の言葉・表現であり、主との交わりです。それをパウロは、「皆が預言している」と言ったのです。神はこのように礼拝する者を求め、お応えする私たちには「平和・平安」があります。私たちは、愛と秩序の神、愛と平安に満ちた神の「かたち」なのですから。